バッハのG線上のアリアってどう思う?
僕の好きな曲に G線上のアリア があります。有名な曲です。おそらくほとんどの方が良い曲だと言うはず。
上の音源は数あるカバーから選んできました。もっと視聴回数や評価の高い音源がありましたが、なぜこれを選んだか?
それは余計な装飾があまりないと感じたから。テンポもちょうどよいし、思い入れたっぷりに弾くわけでもない。淡々と音楽が流れています。キーも変えてないし。(演奏上の都合からキーを C に変えて弾く人は多い)バッハはこういう風な演奏が個人的には好みです。
まあいろいろベースラインの付け方とか難癖を付ければあるのだけれど、じゅうぶん良さは伝わってきます。
それはともかく、「どうしてG線上のアリアは現代でも心に響くのか?」
これはなぜなんでしょうか?理由を考えたことがあるでしょうか?なぜそんなことを考えていたのか?
それは 音楽の本質というか普遍性・・つまり ”絶対的な価値” っていうのを考えていたから。普通はこういうことを言い出すと必ずひとつの考え方がでてきます。それは・・・
「感じ方はひとそれぞれだから別にいいんじゃないの?」
というやつですね。
これは 相対的価値 です。つまり、あるひとには心地よいんだけど、
「オレはどうも好きじゃないなあ・・」 「気持ちよくないなあ・・」
みたいなやつです。
それでひとつの結論として音楽の優劣を語る場合に ”好き嫌い” という尺度を持ち出すわけです。
いかに音楽的に優れていようとも、理論的にがっちり固められようとも好きじゃないものの価値は認めない。逆にハチャメチャな音楽でも感じるものは感じるんだよ~っていう態度です。
僕は正直言ってこの問題についてどう答えを出せばいいのか分からない。はたして音楽の普遍性、本質的な良さを計る基準など存在するんだろうか?ってね。
量的尺度でもって美的なものを測ること
優劣というか、優れた音楽ですね・・そういうのを測る手段としてはやっぱり人気がひとつの尺度にはなるかと思います。
しかしこれは その時代における空気感みたいなもので、その時代にはウケたけど、何十年、あるいは数百年にわたって評価され続けるものなのか?というとそうでもないような気がします。
やっぱり何か聴く人の感性に訴える本質的な要素が隠されているような気がします。その要素とは何か?
数学的ヒントから答えを得る
音楽の美的感覚を表現するのに 数学を用いる というアイデアがあります。私が知る限り それは古代ギリシャ ピタゴラス にさかのぼります。
音楽の美は 音の調和 で表現される。つまり協和音です。音の周波数の対比が整数比に近づくほど美しく響く。ここでは聴く人の感性は問題ではありません。あくまで科学的に考えた場合に より協和度が増す ということです。現実には心地よい感覚と音の整数比は完全に一致しています。一番単純な例は ドミソ ですね。
しかし音楽は協和音だけで構成されているものではないことは だれでも直感的に理解しています。時間経過が重要なファクターである音楽においては ドラマ ストーリー がなければ飽きてしまいます。
その起伏をつくるのが より強い緊張感をともなう音です。完全な不協和音も含む より緊張を生む音 ハーモニー。これを効果的に使うことによって ドラマティックな展開を作り出すことができる。
以上述べたことは 広義の音楽理論の文脈でいうと イオニアンスケール つまり ドレミファのこと の中だけで起きていることです。ヨーロッパの長い歴史の中で受け継がれ、そして変化してきたモードのひとつであり それが発展して現在の一般的な音楽理論になっています。
ものすごく大雑把な記述ですが、現代の音楽理論は1オクターブを12分割した平均律でつくられた音楽理論体系であり、それが当然のこととして受け入れられ、そこから外れたことは間違いとして認識されているのが現状だと思っています。
つまり音楽の美は理論で解明されているということですね。ここでひとつの疑問が沸き起こります。
「はたして数学的に見てきっちり構成された音楽だけが音楽の本質や普遍性を表しているのだろうか?」
という疑問。
次はヨーロッパを源流とする現代の音楽理論に対比させるものとして民族音楽を取り上げてみます。
ブルガリアンボイス と 赤とんぼ ペンタトニックが持つ音楽の普遍性
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追記 音楽の本質を考える時、やはり古典は無視できないはずだ!
音楽の価値を決めるものはいったい何だろうか? これが本稿のテーマです。
手っ取り早く言えば、時代や国が変わっても「良い音楽だ」 と評価されるものについては疑いの余地がなく「音楽の持つ普遍性」 が内包されている。
長い年月をかけて分析され、そして語り継がれる音楽には必ず理由があるはずです。それが音楽の持つ価値、本質的な価値、普遍性ではないでしょうか。
ジャンルを問わず色々な時代背景のもとで評価され、聴き継がれ、歌われてきた作品には言語や文化の違いを乗り越えて共感できる何かがある。
数学的な美しさが音楽的にも美しいというのは事実です。黄金比率でも分かるように、人が美しさを感じる基準値みたいなものは、時代が変わろうが変わりません。永遠に。
だから音楽にも必ず永遠不滅の法則みたいなものがあって、それが根本的に変わることは今後も絶対にない。今ある一般的な音楽理論というのは、これまでの音楽的経験値の集大成みたいなものですからね。
人は「時代が違う」とか「古臭い」とか言って新しいものを求めようとします。それも別に悪いことじゃないです。
やっぱり刺激がないと飽きるし、現代ではヴィジュアル要素も音楽の一部ですし、AV機器の進化によるサウンド面での変化というのも音楽の一部となっています。
でもそれは音楽の持つ価値の表面的なものです。
たとえば、いろんな要素で華麗に装飾されたモノを一枚づつ剥がして、素っ裸になるまでシンプルにしてみましょう。
ちょっと例えが変ですけれども、そういう風に音楽を聴いてみる。具体的に残るのはいったい何でしょうか?
この骨格が音楽のすべてであり、リズム、メロディ、ハーモニーのすべてを含んでいます。僕がバッハ作品の多くを好きなのも、この骨格の流れを美しいと感じるからだと思います。
バッハのピアノだけの演奏というのは余計な装飾がなく、とてもシンプルだけど美しく感じるのは対位法などの技術的なところもあるのだけど、音楽の作り方の考え方として ポリフォニー であることが大きい。
この対位法にこだわったポリフォニー音楽の集大成とでも言える音楽家がバッハであることは間違いないと思っています。
当然ながら現代の音楽は過去の音楽的な歴史遺産の上に成り立っているわけで、そういう意味からも「古典」と言われるもの、音楽においての古典というのは無視できないのです。
音楽の持つ構造的な話において、ポリフォニーって言葉はあんまりなじみがないかも知れません。音楽史などに興味がある方なら聞いたことはあるかも知れませんが、いわゆる多声音楽のこと。
「伴奏とどう違うんだ?」 と思われるかもしれないけれど、これを説明するのはちょっと難しい。
単純に「旋律が複数ある」 と思っていただければいいかなと。それらが絡み合ってひとつの音楽になってると言えます。
旋律に主従関係がないといってもいい。バッハのフーガなんかは明らかに多声音楽です。
バッハ フーガの技法 何度聴いても分からない。バッハが見えていたもの。
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