神社の起源が分からない!? んでもって「神事」が意味するところも分からない(笑) それでも僕は日本人w
この記事では、祝詞など神社に関することを書いています。なにぶん知識がありませんので参考資料などを見ながらの記事ということになります。
大前提として、これら参照する資料に書いてあることなどが「真実である」ことが重要なんですけど、ぶっちゃけ書くと、
だれも神社の起源や、もろもろの神事の意味など知らない
という事実にぶち当たる。
え? そんなことないだろ?
日本には神道に関する学校だってあるんだぞ?
宮司なんかは系統立てて古代からの神事について(その意味、歴史)について習ってるはずだ。
それに皇室神事だって昔から受け継がれているし、第一、天皇家自体が御自身の家系の記録をもっていないとは考えにくいだろ?
もっともそれを公にするかしないかは分からないが・・
うーん、確かにね、天皇、神道、神社、もろもろの神事、祝詞などなど、これら「日本の伝統」に関する事柄は、考古学も含めて学術的な研究書、および古代からの写本、遺跡などが現存している。それは確かなこと。
そして、多くの「権威者たち」によって研究されてます。だけどそれらは「状況証拠が目の前に今ある」というだけで、それらについての解釈は非常にたくさんあり、率直に言って、「どの解釈が真実なのか?」 まったく分からないと言っていいのではないか?
んでもって、「もっともそれらしい」 という意見が(言い換えれば多数を占める見解)というのが常識となる。
古代や何かの起源に関することというのは、それを研究する人・・つまり学者の解釈に依存するのが常であり、明確に意図や意味するところを書いた原初の文献が存在しない限り、すべては研究者の解釈に委ねられるわけだ。
とにかく、日本は起源がまったく分からないほど歴史は古い (笑) としか言いようがない。なので、今後も上で書いたような事柄については永遠に解決、決着しないんじゃないかと思っていますw
なぜ、こんな誰も振り向かないような「日本の古い伝統」について書いているのかというと、究極的には「人類史」というものにすごく興味を惹かれるからなんですね。
祝詞には「言葉」がある・・
さて、話を祝詞に戻します。まあ「神社の起源」というものにもえらく興味を惹かれるのですが、そんなものは考えても分からないし、また資料を漁っても確かなことは分からない。
※ 創建についての情報がはっきり確認できるものもある
それよりも「神事」・・・まあ呪術と表現してもいい、あの儀式というものは誰がいつ考え出したものなのか? 不思議に思ったことはないでしょうか?
代々受け継がれた術と言われても、僕なんかは「???」となるんですが。
まあ時代が変わるにつれて、その形式というのは変化はしているし、流派というのも細分化してくるのですが、とにもかくにも「もともとの姿」というのは確実にあったはずなのですね。
その原初の姿がどのような経緯で生まれたのか? すごく興味がある。
言葉がないと何も始まらない? 日本の古典にみる言霊についての記述
ここではいわゆる「偽書」といわれるものは一旦脇に置くとして、正統な古典といわれる文献から「言葉」について書かれたものを取り上げてみます。
上の作者は 山上憶良 西暦700年代に生きた人ですね。
この詩から分かるように、すでにこの時代には「言葉」に対して「言霊」という認識・・というか言葉に対しての何らかの「知識体系」のようなものがすでにあったことが分かります。
他の古典にも言霊に関する言及はあるようです。なんだか驚異的なことだと感じるのですがどうでしょう?
当時の知識人たちは「言霊」について知っていたのは確実であり、それは神代から語り継いできたものだと言っている。けっして中国・・・隋や唐、あるいはもっと古代の殷とかいったユーラシア大陸に存在したとされる王朝から学んだことではなく、ましてや朝鮮から伝わったものでもなく、まぎれもなく「大和の国」に古くから語り継がれてきた知識なんだと書いているのですね。
ここで留意したいのは、「大和の国」というのが、現実的な地理問題として、現在の日本列島に古代から存在していたのかは別問題。
言霊に関する知識体系が口伝として、あるいは文字として伝えられてきたものなのか?
いずれにしても飛鳥時代に実在したと思われる人物が、その当時でさえ「神代」と呼ぶ時代から「言葉に関する何らかの知識」というものが伝えられてきたのは間違いない。
このことを思うと、いわゆる原始人が自然に対する畏怖から自然に「信仰」をもつようになったとは考えにくく、最初っから「言葉」という何かを表す概念を持っていたんじゃないか? とさえ思えてきます。
つづく
大和言葉とは? 大和言葉(やまとことば)っていつからある?
さて、僕らが所属するこの日本という国。この日本にはいつから言葉が存在したのか?
まあ、そんなことは知識もない僕が考えたってわかることじゃあない (笑) ただ、集団・・というか、まあそうですね、ヒトが集まれば意思を伝えあうことがどうしても必要となってくることは分かるw
じゃないと、集団としての行動がとれない。というわけで時期というか年代は定かではないが、たとえその集団が「家族」という極少数の集団であったとしても、そこには意思伝達のために概念を伝える「言葉」というものがあったとしましょう。
※ 僕ら人類は野獣なんかじゃない。動物の集団を考察するのと同じような考えで「人類集団」を考えることは間違いだと個人的には思う。
この考えを「原始日本国」に当てはめて考えてみます。
一応ですね、原始日本を異国語を話す民族とに分けて考えると、「原始日本語を話す民族」と、「原始日本語を話さない民族」というように分けられます。
んで、この原始日本語を学者は「やまとことば」というように定義づけするのですよね。いつから「やまとことば」は存在するのか? はよく分からないけれども、とにかく外国勢力とは完全に切り離された・・・つまりまったく影響を受けていない日本古来の言葉を「大和言葉」として定義づけしているのですね。
超古代の人々に「国家観」・・・すなわち国家としての認識と言っていいのだけれど、そういう認識が当時の人々にあったのか否か・・・これはよく分からないんだけど、ひとつ言えることは縄文以前に「やまとことば」なんていう概念はなかったはずであり、「やまとことば」という概念を創ったのはずっと後代になってからだと僕は考える。
つまり、裏を返せば「国家」という概念がなければ「語種」のひとつとしての「大和言葉」という概念も発生しないということなんですよ。
つづく
というわけで、仮に縄文以前の超古代に「日本としての」の国家意識があったのだとしたら、当然ながら国家の言葉としてのいわゆる「大和言葉」があり、言霊に関する知識体系も存在したはず。
ここまでの話、ご理解いただけましたでしょうか? なんか自分で書いていても分かりづらく、混乱しそうになりますねw
さて、話をいったん整理します。ちょっと妄想気味といいますか、トンデモ話寄りになるんですが・・・
この日本には縄文文明に先行する文明、文化があったのは間違いない
さて、ここからは縄文時代よりもっと古い時代の話になります。とりあえず、いわゆる一般的教育においては縄文以前の文明についてはまったく習うことはありません。
つまり、ヒトは野獣と同じように知性を持たず、何も考えずその日暮らしをしていた・・・というようなイメージを植え付けられているんですね。違いますか?
それが時間を経るにつれ、次第に言葉や文字を持つようになり、そして農耕を通して社会的階層を持つようになり、やがて国家としてまとまっていく・・・というイメージを持っているのが大半だと思います。
これ、本当にそうだと思いますかね? マジでそう思えますか? 僕には全然そんな風には思えないんですよ。
もうホントに単純に考えてね、僕らは過去からの遺伝子を受け継いでいるわけです。もう何世代にも渡って代々子孫をつくって、それでもって今の自分という存在があるわけです。
だから縄文時代として認識されている時代より、ずーっと昔に先祖っていうのはさかのぼれるはずなんですよ。現実的に自分のルーツを確定させるのは不可能といってもいいのだけれど、単純に考えると両親がいて、そのまた両親という具合にずーっとつながっていないとおかしいわけでね。
それが代々、日本列島と呼ばれるところにいたかどうかは分からないけど、ある時、ポンっと猿みたいなヤツから突然変異して先祖が現れたなんて考えられないわけだ (笑)
んでもって言葉を創り出し、そして文字を発案して今に至ると。
まあ、言語の発生に関しては今でも謎。ましてや人類発生も謎・・・というわけで、人間が一番よく分からないのは人間自身という本当に笑えない事態にあると僕は思ってる。
ちょっと何言ってるかわかんなくなってきましたけど (笑)
参考動画 ↓
ま、いきなり結論を書いてしまいましたが、日本に伝わる「言葉」というものは、何かから発展、派生したものではなく、元々あった・・・
上手く表現できないのですが、いろいろな資料を見て考えてみると、日本語は起源不明なほど古くから存在したのではないか?
漢字文化などが使われるはるか以前から「言葉」は存在し、それらを操る「祝詞」などの知識体系は縄文以前からあったんじゃないだろうか?