なにが 間違い ミストーン であるか?
さて、音楽を考える・・つまりはアドリブしたり作曲したりする行為のなかで問題となってくるのは音の扱いについてです。
パッとサウンドを聴いて妙な違和感を覚える瞬間ってのは誰しもあると思います。
もしかしたら弾いてる本人もきっちり認識しているものもあるだろうし、もしかして弾いてる本人はまったく感知していないケースもあるかもしれません。
僕自身は すべては弾いてる人 その人自身の意識にかかわってくる問題じゃないかと思うんですね。
一応 音楽理論ってのはある。ずーっと昔から蓄積されてきた経験のようなもの あるいは偉大な音楽家が示してきた遺産のようなもの。
それが絶対的なものであるか?という議論は置いといて、とにかく広く一般に認知されてる理論はある。
んで、普通はそこから外れたことをすると 「間違い」を指摘されると。
ここにはふたつ態度があります。
ひとつは理論に合わないから間違いだという態度。
もうひとつは 耳で分別して間違いであると判断するケース。
僕はどちらかというと後者を支持します。理屈はまあどうでもいいんですよ。聴いてみておかしくなければそれでいい。
おそらく楽器を奏する人ならば・・たぶん理屈にはそれほどこだわらないと思います。
かといって、自分がなぜその音を選んだのか?そこにちゃんと理由がなければならないとも思うんですね。
そうでなきゃ タダの偶然、あるいはメチャクチャやってできただけ・・みたいになってしまう。
このあたりのことを上手く説明しているサイトがありましたのでちょっとリンクしておきましょう。
時代によって好みの音使いは変わる?
音楽史を少しかじってみれば、時代によって様式や音使いの好みというか禁止事項などについての変遷を知ることができます。
トライトーンなんかは有名ですし、その他テンションの扱いとか・・まあケーデンス カデンツのあり方とかね。
音楽様式でいえば十二音技法であるとか、あとコンセプトっていうか概念的というとフリージャズとか・・ジョンケージとか現代音楽的なものなどね。
こういったことも含めてやっぱり ”間違いと正しいの違い” ってのはやってる本人が意識しているかどうか?だけじゃないかと。
既存のレジームに対抗する意志なく既存のレジームに抵触した場合、「間違い」と判断される。
上の文章は先のリンクからの引用ですが、上手いこと言ってますね。
かといって僕はデレクベイリーのソロギターとか絶対無理。聴きたくない。高柳昌行などの音楽も受け入れることはできません。
やっぱり三和音が響くと美しく感じる。
倍音の法則は永遠なのだ
音楽で不滅なものは何か?
これはもう音楽を支配している物理法則しかないんじゃないか?
その法則とは 倍音。
たとえ人類が滅びてもこれは不変不滅だと思うんです。
音楽は人類にしか存在しない(これはおおいに議論の余地があるかもしれません)
しかし音響 サウンドってのは完全に物理現象であり、人間の脳にしか存在しないものではありません。
ただ問題はそのサウンドを意図を持って組織化できるかどうか?
ここがタダの音と音楽との違いかもしれません。
話はずれっちゃったけど、狭い意味での ”音楽的間違い” ってのは意識してその音を組織化しているかどうか?
ってことですね。
他人の感性に受け入れてもらえるかどうかは別の話。。
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