音楽におけるドミナント感覚とは
今回の記事タイトル、いったい何を言ってるのかさっぱり理解できないんですけど?
音楽理論について学習すると必ず聞く言葉・・・それがドミナントです。
意味としては「支配的」でいいと思います。つまり音楽の文脈においては、その音楽を支配している構造を指す言葉です。
以下にドミナントがどういう風に音楽を支配しているかの例を挙げてみますね。
人はなぜトライトーンを聴くとトニックに戻る感覚になるのか?
なぜ不安定な音響を聴くと安定した音響に戻りたくなるか?
なぜポップスは端的に言ってG7からCに戻るのか?
ブルースとかロックンロールとか、なぜ黄金のスリーコードだけで音楽ができるのか?
なぜ小学校のお辞儀のピアノ伴奏は C→G7→C なのか?(笑)今はどうだか知らないけど、僕は小学生の時にこのサウンドを聴きながらお辞儀をして着席した記憶がある。
音楽におけるドミナントの意味が分かってない人に言ったって、意味が通じるとは思えないわ。
まずは理論的に説明してみてはどうかな?
いや、いきなり音楽理論から説明しても、この感覚っていうのは分からないと思います。根っからブルース音楽を聴いてた人はすぐに理解できるかもしれませんが、カラオケで好きな曲を歌うだけみたいな人は、理論を言っても興味を持たないし、理解しようとすらしない。
理屈を言うより、実際に歌ってみてドミナントモーションに対する感覚や、違う機能を持つコードをぶつけてみて違和感を覚えてもらった方が理解しやすいのではないか?
たとえばG7などのドミナントコードがくる箇所にわざとサブドミナントをぶつけてみたりすれば強烈な違和感を覚えるはず。
これってみんなケーデンス、カデンツのことだよね?
いわゆるコード進行の決まり文句みたいな。
そうです。いわゆる 終止形 のこと。不安定なままではなくて、ちゃんと落ち着いた姿勢に直ることであり、「そこで元に戻る」という感覚のこと。
始まった時の姿勢に戻る。これを音楽で表すと 「解決」 というんです。ちょっと微妙な響きがして 「おや?」 と思わせて、またドミソのようにきれいな和音に戻る。
なぜ、僕たちはこのようにサウンドが解決する感覚を持っているのか?
現代の音楽はポップスを含めてこんなに単純なものではありませんが、最もシンプルな音楽構造というのは「バロック時代から何も変わっていない」です。
今回のお話は、どうして僕たちはドミナント的感覚を持っているのか? という話です。いったいどこからこの感覚はきているのか?
音楽理論という武器をもって、簡潔に説明することはできますが、それは根本的な疑問の回答にはなりえません。それはなぜか? なぜ音楽理論では説明できないか?
ひとつひとつの理論的根拠をみていきましょう。
ドミナントがドミナントである理由 それらの理由は正しいことなのか?
いわゆるトライトーン自体が、そもそも安定した音程に変化することを求めているのか?
僕はこれは 「違う」 と考えます。
ある音を基音とした場合のM3と♭7の音程差が作るドミナントの響きは、これのみの存在では「どこにも行こうと欲しない」
この「どこにも行こうと欲しない」の意味が分かりますか?
前後に何かサウンドがないと、じゃらーんと単独で鳴らしたいわゆる7thサウンドは何も意味を持たないということを示しています。
僕らはG7が自然にCに解決すると思い込んでいるだけです。
では、音楽において和声のつながり方がドミナント感を生んでいるのか?
たとえばCを鳴らして次にG7を聴くと、「耳がCサウンドを覚えているので、またCに戻りたくなる」
これは正しいか?
これも僕は誤りだと思います。
たとえばCで5分間、つぎにGで5分間演奏して、んでまたCに戻るといった状況を想像してみます。現実にはそんな演奏は誰もしない(笑)けれども、これをドミナントモーションと認識できるかどうか?
おそらく僕には調が変わっただけとしか認識できないのではないかと思います。最初に認識したCサウンドなんか忘れてしまって、GからCに変化したときには4度上行、つまりサブドミナントに変化したように聴こえるんじゃないかと思います。
ちょっと待って!!
モード奏法でイオニアンとミクソリディアンを使い分ければドミナントの感覚を維持できるんじゃないかしら?
んーどうでしょうか?(笑)やったことがないから分からないとしか言いようがありませんが、アイデアとしては興味深いですね。とりあえず次行きましょう。(笑)
ということは、ドミナント感覚というのは、時間的感覚にどうも関係があるのではないか?
どれくらいの時間であるとか、そういった線引きは恣意的ですごく曖昧なところがありますけど、音楽的な時間経過の流れというのは、ある程度 「コード機能」 というものに作用するところがあるはずです。
だから僕らがドミナント感覚を認知するときってのは、適切なタイミングで(時間)適切なサウンド(正しい構文)が鳴るとドミナントをドミナントサウンドとして認知するわけで、いつでもどこでもトライトーンが響けばドミナントを感知するわけじゃない。
つまり文法に例えると、英語だと SVO という構文において、人が意味を聴きとれる速さ、極端に遅くもなく、速くもない状況で誰かに話されると「意味を認識する」のと同じで、音楽においても、ドミナントをドミナントだと認識できる許容範囲みたいなのがあって、それを逸脱すると、ドミナントしては認識されなくなるんじゃないか。
これちょっと難しすぎない?
機能和声法はどうして機能するのか? ってことを論じているのかしら?
たぶんそういうことですね。和声のつながりにどうして機能が生じるのか?
つづく
どうして和声のつながり方に機能を持たせる考え方を持ち込んだんだろうか? あなたは不思議に思ったことはないだろうか?
僕は「和声のつながり方には元々、機能的な構造がある」 とは考えていません。この「機能的な何か、役割みたいなもの」は、自然発生したものではなくて、人為的に考え出されたものではないか?
機能和声法は有効に機能するように考えられて作られているからこそ機能するのであって、有効に機能しないように和声をつなぐことは可能です。
ちょっと表現がおかしいかもしれませんが、機能和声で捉えることが非常に難しい音楽も現実にあります。
たとえば日本の雅楽。どこか始まりでどこが終わりか? どこがドミナントでどこがサブドミナントか? なんかはっきりしないサウンドで、どういった考えで創られているのかさっぱり把握できない。
ちなみに僕たちが式典で歌う 君が代。これはモロに雅楽のハーモニー、メロディです。音楽の作り方としては、旋法ですね。
ここではあまり話を広げることはせずに、どうして機能和声法を考え出したのか? ということについて僕なりに推理してみたい。
リベラルアーツが機能和声法の源なのか?
唐突にリベラルアーツ(笑)詳しくはWIKIでお願いします。
- ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで[注釈 1]、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学[注釈 2]・音楽[注釈 3]の4科のこと。
どうして突然、古代ギリシャに起源をもつリベラルアーツなんて出してきたんですか?
それは、機能和声法という考え方を持つに至った背景には、長い歴史の蓄積があると考えたからです。
リベラルアーツの内容を概観すれば、およそ「物事を論理的に捉える」ことの訓練だとみなすこともできます。
ヨーロッパにおいては、古くから「論理的思考」ができること、もしくはすることを尊ぶ土壌がありました。ギリシャの哲人をみれば明らかです。
注意してほしいことは、文法や修辞学(レトリック)、数学などとともに音楽も教養の一つとして挙げられていること。
これがなにを意味するか?
僕が思うに、音楽も論理学や数学と同じように論理的でなければならないということを意味しています。
こういった音楽観が中世ヨーロッパには依然としてあって、そこから音楽を論理的にとらえて機能和声という考えを持つに至ったというわけです。
どうして音楽に機能的なるものを考える必要があったのか? 上に書いたことはすべて僕の推測ではあるけれど、元々、すべてを論理的に考える土壌がすでにあって、それは音楽についても例外ではなかったということじゃないでしょうか。
つづく
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