音楽における「感覚」と「理論」のおはなし 作曲やインプロヴィゼーションを理解するための「音楽の本質的構造」について

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音楽構造についての本質的な話 「あなたは音楽をどういうふうに捉えているか?」 ← 考えたことはありますか?

さて、この記事では「音楽構造の本質」について書いています。なんだか難しそうなテーマなんですけど、これから書くことは誰もが感じ得ることじゃないかと思うわけでね。

どんな音楽が好きなのか、あるいはプレイするのか、んでもって作曲しているのかは、まあ、人それぞれなんですが、僕自身は「音楽には本質的構造がある」と感じています。

音楽の本質的構造ってなんだよ?

さっぱり意味がわかんねーんだけど?

みんなそれぞれ勝手にやってるんじゃないの?

 

はい、おそらく音楽に対する考え方っていうのは「百人いれば百通りの考え方がある」といってもいいですね。僕はそれは否定しません。誰だって好きな音楽を好きなように表現すればいいんです。

ただね、それを「帰納的」に考えると・・・どうも一つの法則のようなものに帰結する感じがするわけですよ。

それが・・・ドミナントですね。まあ、こう書くとですね・・

「あー、またそれ?」 「もう聞き飽きた。。」

なんて声が聞こえてきそうですが、これは何もコード進行だけの話じゃあないわけでね。メロディーや、アドリブライン、そしてリズムなんかにおいても、すべてがこの法則に支配されている。

いや、ちょっと待って! すべての音楽ではないかもしれませんね・・んー、特殊なコンセプトで書かれた音楽もありますから。。ここでは平均律で書かれた「大衆向けの音楽」・・いわゆるライトミュージック全般という理解でお願いします (笑)

過去にこれに類する話を書いている記事があるので良かったら読んでくださいね。

 

 

ヒトが感じる音楽的感覚は理論で説明できる?

ヒトが感じる音楽的感覚を理論的に説明しようとする試みは古くからありまして、まあ学者さんなんかがね本を書いていたりします。

知ってる人はたくさんいるだろうけど、古くはピタゴラスなんかが有名ですね。一般的解説では倍音構造での説明があります。

倍音での理解としては、高次倍音になるほど響きが複雑になり、低次倍音になるとより安定した響きになる。

もうひとつは周波数の対比による解説です。和音構造というものを周波数の対比によって表した場合、複雑な比率になる和音ほど響きが豊かになり、単純な比率になると響きは単調というか安定した感じになります。

ここで勘違いしてはいけないのですが、音の組み合わせが 複雑、もしくは高次になるほど不協和音になるかというと「そうではない」ということです。

言葉上での表現では、「サウンドが豊かになる」  と言った方がいいか。

俗に セブンスコード といわれる響きというのは、周波数や倍音が複雑になるのですが、和声の流れにおいて聴感上は不協和音には普通は聴こえません。

んで、一般的にはこの和音のことを「ドミナント」と呼ぶのですね。理論的には 増4度 (減5度) の音程を含む和音です。

今ここで僕が伝えたいのは、ドミナント機能を持つコード (サブドミナントも含む) や、その代理コード(裏コード)の話ではなくて・・・つまり、音楽の構成のうえでの「ドミナント感覚」なんです。これ、理解してもらえるでしょうか?

単なるコード進行におけるドミナントモーションとは別に、「ドミナント感覚」 というものが音楽にはあるのではないか? という話なんですね。ちょっと上手く説明できないんでね (笑) 以下に参考になると思われる動画を載せましょう。

 

ドミナントを感じることの大切さ〜ゴールドベルク変奏曲を通して〜

 

お姉さんw が熱く語ってくれてますねぇ。

※ あ、ちょっと追記です。

先ほど「ドミナントコードとは別に・・」ということを書きました。これはちょっと誤解をされる言い方なので、もうちょっと正確に書きますね。

いや、これは理論的に解釈すると、「すべての音楽進行は機能和声の考え方で説明されている」 と書いた方がいい。

ただ、わざとにそういう和声進行をぼかす手法というのがあってね、それは例えば ドビュッシー なんかに代表される 印象派 の音楽があるわけです。あるいは エリックサティ とか。

しかし、それでも主音に回帰する感覚・・つまりはドミナント感覚というのはメロディの中に確実にある。たとえ機能的ではなくっても。

ここで僕が伝えたいことは・・

音楽には 「主」 となるものイコール主音 があって、それを 「核」 とすると、そこからちょっと音がズレていった場合、磁力みたいなものがまた別の音に一斉に向いていく感覚・・つまり主となる音が変化する

といった意味での ドミナント感覚 のことを指しています。これは結局のところ 機能和声 という枠組みに含まれてしまうわけですけどね。

音楽を音の流れイコール 「ボールのようなもの」 として理解しますと以下のような表現で分かってもらえるかなぁ・・

ボールが水平なところに置いてあります。何もしなければボールは動きません。ただ少し傾斜を与えるとボールは低い方へ転がり始めます。このように傾斜を変えることによってボールはスピードや方向を変えながら動き回り、最終的に水平に戻すと勢いを失って止まります。

んで、この傾斜というのが コード進行 カデンツ ケーデンス であり、その核としてドミナントモーションがあるというわけで。

こういう理解の仕方ってのは、単なる楽曲アナライズ(コード機能とかケーデンスなどの分析)とはちょっと違っていて、なかなか本質に迫っているんじゃないかと。

しかし、この曲 僕も好きだなぁ

 


 

さて、今回のおはなし・・なんだか フワッとしていて、理解し難い人もいるかもしれません。

音楽の理解の仕方には制限などなく、だれもが好きなように解釈すればいいというのが僕の考えなのですが・・・それでもやっぱり音楽には「法則」が働いているのであり、それは僕らが地球上の生活において、物理法則から逃れられないのと同じように、音楽においてもやはり目には見えないけれども確実にその「法則」の影響を受けていると感じます。

それで、それを無理やり壊す、もしくは避けようとすると、どうしても不自然な印象を持たざるを得なくなる。

奇をてらった楽曲というのは、今も昔もまあ、ありますけれども、僕はそれは否定はしない。

ただ、それを美しく感じられるかどうか?

ある意味、既存の音楽のルールをぶっ壊していくことが「新しい音楽の開拓者」という文脈上、良い意味で捉えられることがありますけれども、聴いていて心地よくないものが果たして美しい音楽なのか?

これには正解がない。

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