僕は自分の一生を田舎で終えるだろう。でもそれでいい。
このページでは個人的な想いを書くつもりです。誰も興味がないことは分かってる。地域や地方について、いわゆる活性化について考えていくなかで書きたくなりました。そもそも地域活性化など必要なのかどうか? なぜ誰も食い止められない流れに あえて立ち向かっていかなければならないのか?
愛郷心とか、その地域の歴史や文化など、個人のアイデンティティにかかわるものとして守っていかなければならないものなのか? もしそうだとするならば、どうやって?
経済的合理性で物事は動く
田舎と都会のいわゆる喧嘩は、経済的合理性というものに帰結する。たぶん。
「俺たちが納めた金を、クソ田舎にバラ撒くんじゃねえ!!」
「都会を支えてるのはオラ達だあ!!田舎もんだからってなめんじゃねーぞ!!」
まあ話はこんな単純ではありません。が、構図としては分かりやすいんじゃないかと思います。大都市圏に人口が集中しているといっても元々は地方出身者が大半を占めるのであり、地方が大都市を支えてるというのはそれほど的外れな意見でもないと感じます。ただし一次産業に関しては、自給率も相当低いと思われますので地方が都会を支えてるとは言い難いかもしれません。
経済的合理性からいうと、メガシティ構想 というのは正しいと思います。単純に考えて人口わずか10人のところに道路を作るよりも、1000人が集中して暮らしているところにインフラ整備をしたほうが効率がいいに決まってます。
それで、こういう合理的考え方で国土設計を行っていく。こうなると地方民は猛反発します。
「我々も同じ国民ではないか? 国は地方を見捨てるのか?」
んで、こういう話になると決まって選挙の話になります。地方に地盤のある議員は地方寄り、都会地盤は都会寄りの政策といった具合です。このあたりはいわゆる族議員と同じで、特定の応援集団に対して都合のよい政策を提示して票を得るといった構図です。
正直どっちもどっちで、どこに正義というか 正しいのか? 誤っているのか? 見極めることが難しく、結局は自己の利益だけを考えて行動しているのか? ということになります。政策においては社会的正義などというものは存在せず、あるのはただただ自己の利益のみではないか。ちょっと言い過ぎだとは思いますが。
話がデカくなってしまいました。これは 日本 におけるいわゆる 少子高齢化や、それに伴う 過疎 の話であり、規模を縮小すれば、地方の中核都市とその周辺地域 いわゆる 中山間地 の関係にもよく似ています。やはりどこでも中心地というのは栄えるのであり、その周辺地域はどうしてもすたれていく。
なぜ周辺地域はすたれていくのか?
ここでは一般的な回答など書きません。独自解釈としてはこうです。
周辺は中心に引っ張られる。
笑っちゃう? そう真ん中に引っ張られちゃうんですよ。なんか引力みたいなチカラが働いてて、まるでブラックホールのように落ちてったものがさらなる質量を生み、さらにパワーアップしていく。そしてそれは加速する。
このように考えると過疎を回避して生き残る道はただひとつ。それは・・・
何かの中心地にみずからが成ること。これしかない。
いささか冗談気味で書いてるんですが、ハード面でもいいし、ソフト面でもいいです。人を引き付ける強烈な なにか があればいいんです。
僕は田舎が好きだから田舎に住み続ける
僕は都会暮らしの経験があります。東京23区内はもちろん、横浜、そして川崎市など。だから都会暮らしがどんなものかはよく知っている。実家の援助などありませんでしたから貧乏暮らしでしたけどね。僕には正直 都会は合いませんでした。だから今は田舎暮らし。
以前は都会に対して 憧れ というのはものすごくありました。でも今はまったくないです。二度と東京で暮らしたいとは思わない。そういった感情は個人的なものだからどうでもいいけど。ああいった環境が好きな人もいるだろうし、住みたい人は行けばいいと思います。
個人的な感想としては、田舎の方が暮らしやすいですね。音楽も遠慮なく聴けて、ピアノやギターといった楽器も普通に鳴らせますし、自然環境も恵まれていて水もうまい。インターネットも普通に使えるし、買い物というか物流に関しても特別ハンディがあるわけでもないです。
よく刺激がないとか、遊び場がない、あるのはイオンかパチンコ屋ぐらいだとか言われますけど、そういうのは受け手の感性の問題だと思います。静かで日当たりの良い環境のなかで読書したり、裏山の遊歩道を散策したり、自然を観察したり・・僕には贅沢な時間です。
周りから受ける物理的な刺激は少ないけれども、自分の感受性という周波数を環境に合わせてみれば また違った刺激を受けると思いますね。自分にとって 騒々しさ というのは苦痛以外の何物でもない。
とりとめのない独り言でした。おわり。
なんとなく 自然の摂理 というか、自然の循環系 を思い浮かべていたら イメージが膨らんで、過疎化 とか、大都市圏に人やモノや金などが流れ込んで肥大していくイメージと重なってきたので追記として記事を書きます。
地球の自然の循環系と文明の興りと発展
さて、自然界における循環系といいますと何を思い浮かべますか? 僕は単純に水の循環系を想像しました。雨が降り、そして河となって大地を侵食しつつ海に流れ込む。そして蒸発した水分は雲となり、また雨や雪となり大地に降り注ぐ。このようにして河口は肥沃な大地となり植物が発生する。
人類の文明の発祥には条件があって、まず きれいな水があること。これは飲料水となり、また食料庫となる森を育み、あるいは作物を栽培する土地を最適化するための絶対条件となります。それに豊富な栄養源を含んだ平地を作るための絶対条件でもあります。いろいろな鉱物のミネラルを含んだ水が細かな砂、土などともに河口に堆積していって初めてたくさんの人を養えるだけの作物栽培に適した土地となります。
このようにして古代文明はまず大きな河川の河口に出現しました。これらのイメージを日本の農村地域と大都市圏などと対比してイメージしてみます。
結論から言いますと、文明が栄えるのは常に河口であり、川上の地域ではありません。川上は常に裏方であり、河口地域を支える生産地としての役割を担っています。どちらもそれぞれに役割があって、どちらかが欠けてもバランスが崩れてこの構図が成立しなくなる。
イメージとしてもう少し細かく書いてみます。
例えば 自然界の循環系における水を 人 としてイメージしてみます。川上の過疎地域で育った人間は何かの動機をもって都市圏に流れていく。その流れ着いた先・・つまり大都市圏でいくらかの人間は また違った考えを得て海から水蒸気となり、そして生まれ故郷である ふるさと へ雨となって降り地上に舞い戻ってきます。このようにして少しづつ人の循環というのは起きていて、とりたてて政策などによって人為的に流れを変えることをせずとも、自然の流れに任せておけばいいのだ・・・というイメージ。
いささかバカげているイメージかもしれませんが、なにか共通する部分を感じます。
物流やお金の流れは直接的なもので、あえてイメージする必要はないです。田舎で採れたものを大都市圏へお金と引き換えに流しているだけですからね。
田舎と都市の共生
田舎と都市はまったく性質が違う。同じ土俵で違う性質を持つものを比較して語ることはできないということです。大都市圏にはそれなりの考え方で将来ビジョンを考える必要があり、同じように 過疎の進む中山間地も最適解を得るべく将来ヴィジョンを考える必要があります。
それぞれに最適な解があるはずです。地域の規模、立地などに照らして、最適なサイズ、やり方を考えるべきであり、一口に 地域活性化とはこうである などと定義付けするべきではないのです。
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