人種に依存しない、日本語で育った人が持つ特殊な感性
英語、えいご、EIGO ・・・
未だに英語は日本で大人気、英語が使えなきゃ人じゃねえ みたいな風潮もある現在。確かに英語に限らず多言語を操れることはすばらしいこと。
ここでは後天的に学習して日本語以外を身に着けることの素晴らしさ・・・ではなくて、どんな言語を母語として育ったのか? ということをテーマにした話。
どうやら日本語は特殊らしい
「特殊」 といわれても、何がどう特殊なのか さっぱり分かりませんが、発端は虫が鳴く音についての ある気づきからでした。
日本では虫の鳴く声を鑑賞する文化があります。りんりん、とか、みんみん とか、その他いろいろあると思うんだけど、これが外国語を母語として育った人は騒音、もしくは音楽のようなものとして認知するらしい。
まあ、たしかにセミなんかが集団で鳴くと、とってもウルサイんだけど、日本人はこれを言語のように聴くらしい。詳しくは以下の記事を読んでみてほしい。
そして、その特性を持つ言語は非常に限られていて、日本語、そしてポリネシアだけらしい。この、虫の鳴き声 を言語脳である左脳で認知しているという事実は、日本の持つあらゆる文化的側面に現れていて、それは万葉の古代から連綿と日本人に受け継がれている。
中国人や朝鮮人もおなじアジア人で、外見はよく似ているんだけど、彼らとはどういうわけか根本的に感性が違うらしいです。人体の遺伝的特質ではなくて、完全に言語の違いからそういった感性の違いが生まれていることにまずビックリですね。
翻訳できない独特の感性、考え
ちょっと考えてみれば、どうにも翻訳できない言葉って、違う文化圏ではよくありますよね。
それはやはり感性が違うからであり、新しい言葉を作るか、あるいは、そのまま拝借しちゃって、その言葉の持つ意味を理解し直すしかない。
言葉、言語って不思議。
あ、そういえば子供のころ、「なんで外人と日本人って、動物の鳴き声の表現が全然違うんだろう?」 って不思議に感じていたことを思い出しました。
ほんとに違うからね。同じ声 聞いてんのになんで違うの?
追記 無知はダメだ。この言説は1970年代にすでにあったのか。
いろいろ関連記事を見ていました。その結果は、ちょっと残念なものに。
元となる 角田忠信 という人物。この方が事の発端らしいです。そして彼の言説はすでに否定されているとのこと。
この話題は定期的に取り上げられていて、日本人には人気がある模様。なるほど、われわれ日本民族の脳が良い意味で特殊と言われれば悪い気はしませんからね。
しかし、言語の違いが脳の働きに影響を及ぼすという考えは魅力がある。
最近になって、「生物学的な遺伝とは別に、文化的、社会的な違いも遺伝に生物学的な影響を与えている可能性がある」 という記事がありました。
これは、長い期間 同じ環境に暴露されると、文化的、社会的な違い というものが、生物学的な遺伝情報のひとつとしてDNAに刻まれ、子孫に受け継がれていくことを示しています。
つまり、人種が同じでも、じゅうぶんな時間をかければDNAそのものも変化していく。
こういうふうに考えれば、角田忠信の言説もそれほど的を外しているとは考えにくい。長い伝統、文化というものは、確実にDNAを変質させ、その獲得した特質は子孫にも受け継がれていくんじゃないだろうか?
僕自身は 言葉 っていうのはやっぱり特別な力があると思っています。なぜなら、モノを考えようとするときに、概念 がなければ何も始まりません。たとえばあることを発想しようとするとき、外国にはソレを表す概念がっても、自国語にソレに相当する言葉がなければ発想することすらできないんじゃないでしょうか?
これらが示唆することは 人種差別、優性思想 にもつばがる危険な考えかもしれない。
しかし世界の歴史や現実をよく見てみれば完全にウソとして否定できない側面もあるんじゃないかと感じます。
たとえば アフリカ。
あの大陸で先進国を思い浮かべてほしい。僕には南アフリカ共和国しか思い浮かばない。多くの国が多大な開発援助をしている現在も相変わらず内戦が続き、一向に収まらない。清潔な水や電気もなく、飢えや病気で多くの人たちがなくなっている現状。
なんでアフリカは不毛なんだろ?
人種が劣っているとかそういう問題じゃない。アメリカで生まれ育った黒人たちはアメリカ国民として普通に暮らしている。黒人全部がギャングとか不良ではなくて、常識ある生活を送り、高い社会的地位にいる人もいます。
やはり国家として成熟するには、長い伝統、文化的な蓄積が必要であり、一夜漬けのように先進国のやり方を真似するだけでは上手くいかない気がします。
そして・・・朝鮮ですね。
現代朝鮮の歴史は比較的新しくて、李氏朝鮮 というのは間違いない。あっちの人に言わせれば、もっととんでもなく古いことを言い出すのですが、言語や文化からいうと李氏朝鮮です。
もともと漢字を使う文化ですけど、もっと簡単に広く国民が使える言語としてハングルをすすめます。漢字は一部の特権階級しか使わなかった。身分制度もきびしく制限され、完全な階級社会が何世代にもわたって続けられます。
日本が朝鮮に干渉を始めたころは、抵抗もありました。今までの制度がよい勢力と、改革派によるいざこざです。この事情は幕末の日本も全く同じで、内戦を経て明治政府による国家運営となります。日本の朝鮮に対する干渉は強引な面も確かにありましたけど、それは服属させるというより、一緒に改革していこうという側面が強かったと思います。
これは受け取り方なんだと思いますね。
日本の干渉によって身分制度もなくなり、清国に対する朝貢もなくなった。アジアの独立国としての誕生です。しかしながら、何百年にもわたる慣習、文化からの呪縛からはそう簡単に逃れることはできない。
先ほども述べたように、一夜漬けのような政治的改革では 国民性・・・いや、李氏朝鮮時代から引き継いだ遺伝的特性というのは簡単に書き換えられないのです。その影響は驚くことに現代にまで現れています。
以上、述べたことは 妄想 として一蹴することは簡単ですよ。「そんなことあり得ない」 と。
しかし、現代韓国との外交や北朝鮮などとのやりとりを見る限り、朝鮮はまだまだ未開なんじゃないか? 先進国などというのはまったく馬鹿げていて、やっぱり文化的にはうすっぺらく、付き合い方を変えるべきなんだと感じます。
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