巨人の骨の話を、簡単にデマとは言い切れないと感じた
以前、岩手・宮城内陸地震のときに「巨人の骨のようなものが映った」という話について書いたことがあります。

その記事を書いたとき、僕は単にネットの画像を見て飛びついたわけではありませんでした。聖書に出てくるネフィリム、エノク書に出てくる巨人、世界各地に残る巨人骨発見談、そして当時の映像を見たという証言。そういうものが頭の中でつながって、どうにも簡単に切り捨てられない話だと感じていました。
もちろん、現在出回っている有名な「岩手・宮城内陸地震の巨人骨画像」については、かなり疑わしい。日本ファクトチェックセンターは、その画像を、NHKの報道映像と吉野ヶ里遺跡の人骨画像を合成したものと見ています。
この点については、僕もかなり納得しています。少なくとも、いまネット上でよく見かける画像そのものを、本物の現場写真として扱うのは無理があるでしょう。
ただ、それで全部が終わるのかと言えば、僕にはそうも思えないのです。

画像が合成なら、やっぱり全部デマってことになるのか?

画像が合成だということと、証言や伝承まで全て無意味になることは別です。そこを分けて考える必要があります。
ポイント
現在出回っている画像が合成だとしても、それだけで「当時、誰も何も見ていない」とまでは言えません。画像の真偽と、証言や伝承の扱いは分ける必要があります。
聖書やエノク書には、確かに巨人伝承がある
巨人の話は、現代のネット陰謀論だけで突然出てきたものではありません。
たとえば聖書の創世記には、ネフィリムという存在が登場します。民数記にも、アナク人やネフィリムに関する記述があります。もちろん、これをそのまま現代考古学の証拠として扱うことはできません。しかし、古代の宗教文献の中に「巨人」的な存在が語られているのは事実です。
また、エノク書にも、見張りの天使たちと人間の女性、その子としての巨人に関する記述があります。エノク書の扱いは宗派や立場によって違いますが、少なくとも古代の巨人伝承を考える上では無視できない資料です。
だから、僕がこの話に引っかかるのは、単に「大きな骨の画像が面白いから」ではありません。もっと古い層に、巨人の記憶や伝承があるように見えるからです。
ただし、ここでも注意が必要です。
聖書やエノク書に巨人伝承があることと、現代に巨大人骨が発見されたことは同じではありません。宗教文献・神話・伝承としての巨人と、現代考古学で確認された標本としての巨人骨は、きちんと分けなければならない。
世界各地の巨人骨発見談と、確認済みの証拠は別である
世界各地には、巨人骨発見談がたくさんあります。古い新聞記事、地域伝承、古代遺跡の話、ネイティブ・アメリカンの墳丘にまつわる話。調べれば調べるほど、そういう話は大量に出てきます。
だから、「巨人骨発見談なんて存在しない」とは言えません。発見談そのものは、確かに存在します。
しかし、そこで問題になるのは、その発見談がどこまで検証されているかです。
古新聞に載っていたから事実なのか。発見者の証言があるから標本が存在したのか。写真があるから本物なのか。博物館や大学に保管記録があるのか。骨の鑑定記録はあるのか。
ここまで進むと、話は急に難しくなります。
スミソニアン博物館が巨人骨を隠蔽したという説もあります。ただ、Reutersなどのファクトチェックでは、有名な「スミソニアンが大量の巨人骨を破壊した」という話は、風刺・創作系サイト由来の話が広がったものだとされています。
これもまた、簡単に片付けられないところです。
ファクトチェックが否定しているのは、特定の有名な主張です。だからといって、世界中の巨人骨発見談のすべてが同時に消えるわけではありません。しかし、スミソニアン隠蔽説をそのまま確定事実として扱うのも危険です。
整理すると
巨人骨発見談が多数あることは事実です。しかし、それが現代考古学上の確認済み標本として成立しているかは、別の検証が必要です。
現在の画像は合成でも、証言の問題は残る
岩手・宮城内陸地震の巨人骨説で、僕が気になっているのは画像だけではありません。
当時の生中継で見たという人の証言があります。無名の人たちの証言もあります。マドモアゼル・愛さんも、その件について「自分も見た」という趣旨の話をしていたはずです。
こういう証言をどう扱うか。
もちろん、証言だけで「巨人骨が映った」と断定することはできません。人間の記憶は変化します。あとから見た画像や話が、当時の記憶と混ざることもあります。崩落現場の岩や木、白い構造物を骨のように見間違えた可能性もあります。
しかし、だからといって、証言者をすぐに嘘つき扱いするのも違うと思います。
ここは、嘘か本当かの二択ではありません。
本当に何か奇妙なものを見たのかもしれない。見間違いだったのかもしれない。後から流通した合成画像と記憶が混ざったのかもしれない。別の映像と混同したのかもしれない。あるいは、現在確認できる公開映像には残っていない何かがあったのかもしれない。
この複数の可能性を残したまま考えるべきだと思います。

証言があるなら、やっぱり何かあったんじゃないか?

証言は無視できません。ただし、証言だけで物証と同じ扱いにはできません。証言の価値と限界を分ける必要があります。
調べる対象そのものが汚染されていたらどうするのか
今回の話で、僕が一番嫌だと思うのはここです。
調べようとしている情報そのものが、すでに汚染されていたらどうするのか。
ネット上に残っている画像は合成かもしれない。証言は後年の記憶で変化しているかもしれない。まとめサイトは話を盛っているかもしれない。ファクトチェック記事も、否定できる範囲と否定できない範囲がある。
さらに、古い情報は消えている可能性があります。動画は削除される。テレビ局のアーカイブは一般には見られない。証言も時間が経てば曖昧になる。そうなると、後から調べる側は、すでに編集され、再投稿され、反論され、合成され、検証された後の情報しか見られない。
この状態で「調べました。結論はこうです」と言い切るのは、かなり怖いことです。
AIを使って調べる場合も同じです。
AIは大量の情報を整理できます。でも、材料そのものが汚染されていれば、AIの判断も汚染されます。検索結果が偏っていれば、結論も偏ります。残っている情報だけを拾えば、消えた情報は存在しなかったことになってしまいます。
ここが一番重要
情報源そのものが汚染されていた場合、どれだけ丁寧に調べても、判断が間違う可能性があります。だから必要なのは、結論を急ぐことではなく、情報の汚染度を見分けることです。
ファクトチェックが否定した範囲を、広げすぎてはいけない
ファクトチェックは大事です。
現在流通している画像が合成かどうか。元画像がどこにあるのか。別の画像と重ね合わせられるのか。こうした検証は、かなり有効です。
ただし、ファクトチェックが何を否定しているのかは、慎重に見る必要があります。
たとえば、「この画像は合成である」と示された場合、それで分かるのは基本的には「この画像は本物ではない」ということです。
そこからさらに、「だから当時誰も何も見ていない」「証言者は全員勘違い」「巨人伝承も全部意味がない」とまで言うのは、検証の射程を超えています。
逆に、証言があるからといって、「だから巨人骨は確実に映った」と言うのも飛躍です。
この両方を避けたい。
合成画像は合成画像として認める。証言は証言として残す。伝承は伝承として見る。考古学的証拠とは分ける。ファクトチェックはファクトチェックとして尊重しつつ、その射程を広げすぎない。
この姿勢が必要なのだと思います。
僕が本当に気になっているのは、巨人そのものより情報の扱い方かもしれない
もちろん、巨人の話そのものにも興味はあります。
聖書やエノク書に出てくる巨人。世界各地にある巨人骨発見談。古代文明や神話に残る巨大な存在。そういう話には、今でも強く惹かれます。
でも、今回あらためて考えてみると、僕が本当に気になっているのは、巨人がいたかどうかだけではないのかもしれません。
情報がどう作られ、どう広がり、どう否定され、どう記憶に残るのか。
そこにこそ、かなり大きな問題があるように思います。
合成画像が出回る。証言が残る。ファクトチェックが入る。反論が出る。古い記憶と新しい画像が混ざる。検索結果に残った情報だけが、後から見た人にとっての「現実」になる。
この流れそのものが、かなり怖い。
AI時代には、なおさらです。
画像も作れる。文章も整えられる。もっともらしい説明も生成できる。反論も生成できる。そうなると、あとから調べる人間は、いったい何を根拠に判断すればいいのか。
この問いは、巨人の骨の話だけでは終わりません。
まとめ 真偽より先に、情報の層を分けて考えたい
岩手・宮城内陸地震の巨人骨説について、今の僕は単純に「本当だ」とも「全部デマだ」とも言いたくありません。
現在出回っている画像が合成だという検証には、かなり納得しています。そこは認めるべきだと思います。
しかし、それで全てが片付いたとも思っていません。
なぜなら、問題は画像だけではないからです。リアルタイムで見たという証言がある。聖書やエノク書には巨人伝承がある。世界各地には巨人骨発見談がある。スミソニアンをめぐる疑惑も語られてきた。
それらを全部まとめて肯定するのも危険です。しかし、全部まとめて嘲笑するのも、やはり雑だと思います。
だから、まず分けたい。
画像は画像。証言は証言。伝承は伝承。考古学的証拠は考古学的証拠。ファクトチェックはファクトチェック。記憶は記憶。情報汚染は情報汚染。
この層を分けずに、「本当か嘘か」だけで考えると、かえって見えなくなるものがあります。
この記事の結論
巨人の骨の話で本当に難しいのは、真偽そのものよりも、情報がすでに汚染されている可能性です。だから必要なのは、すぐに信じることでも、すぐに笑い飛ばすことでもなく、情報の層を分けて考えることだと思います。
今さら、このテーマを徹底的に調べ直すのは正直かなり骨が折れます。
でも、この会話を通じてひとつ分かったことがあります。
僕が気になっていたのは、単なる巨人実在論ではなかったということです。
それは、証言、画像、伝承、検証、記憶、検索結果、AIの判断が、どのように絡み合っていくのかという問題でした。
そしてこの問題は、これからの時代にますます大きくなると思います。
情報が多すぎる時代に、何を信じるのか。
情報が汚染されているかもしれない時代に、どうやって判断するのか。
巨人の骨の話は、その問いを考えるための、かなり不思議で、かなり厄介な入口なのかもしれません。


