こんにちは、クルーです。
ロシアの『アナスタシア』という本を知ったのはかなり前ですが、最近あらためてこのシリーズを調べていて、最初のところで立ち止まりました。
そもそも、アナスタシアとは誰なのか。
シベリアのタイガでほとんど文明社会から離れて暮らし、動物と意思を通わせ、人間の思考や未来、家族、土地、宇宙について語る女性。著者ウラジーミル・メグレは、彼女を創作上の人物としてではなく、自分が実際に出会った女性として書いています。
だとすれば当然、気になることがあります。
アナスタシアは本当に実在したのでしょうか。
この疑問は単純に見えます。「いた」か「いなかった」か、どちらかを調べればいい。しかし実際にロシア語や英語の資料、学術研究、メグレ本人の発言まで追ってみると、話はそれほど簡単ではありませんでした。
今回はシリーズ第1回として、まずこの一点だけを追います。アナスタシアの思想が正しいのか、超常能力が本物なのかという話は、いったん脇に置きます。
彼女は実在したのか。
確認できた事実と、確認できなかったことを分けながら見ていきます。


物語は、シベリアの商業遠征から始まる
『アナスタシア』シリーズの著者ウラジーミル・メグレは、もともと宗教学者でも哲学者でもありません。公開されている本人の経歴や出版社側の紹介では、シベリアで活動した実業家であり、写真にも関わっていた人物として説明されています。
ペレストロイカ期には企業活動に関わり、オビ川流域で交易や商業遠征を行っていたとされています。
この経歴は、私には少し意外でした。
アナスタシアの内容だけを先に知ると、著者も最初から自然思想や神秘思想の世界にいた人物のように想像してしまいます。しかし少なくともメグレ自身が語る出発点は、かなり現実的です。商売をしていた人間が、シベリアの奥地へ入っていった。
そして1994年から1995年頃のオビ川での遠征を経て、アナスタシアとの出会いを語り始めます。
シリーズ第1巻では、メグレは「響く杉」と呼ばれる特別なシベリア杉の話を追う中で、タイガの奥地へ向かいます。そこでアナスタシアと出会い、彼女の暮らす場所に滞在することになります。
ここで注意したいのは、最初から壮大な宇宙論が展開されるわけではないことです。
一人の都会的な男が、文明から離れた場所で暮らす女性と出会う。彼女の言うことが理解できず、時には反発し、馬鹿にし、しかし少しずつその世界観に引き込まれていく。
物語として非常に読みやすい構造になっています。
そして、この「メグレ自身が疑う側にいる」という構造が重要なのだと思います。
読者もメグレと同じ位置に立てるからです。
アナスタシアが突拍子もないことを言う。メグレが「そんな馬鹿な」と反応する。読者も同じように疑う。しかし物語はその先へ進む。
これは、単なる教義書とはかなり違います。
本の中のアナスタシアは、普通の「森の女性」ではない
では、アナスタシアはどんな人物として描かれているのでしょうか。
若い女性で、シベリアのタイガに暮らし、ほとんど衣服を必要とせず、自然の中で生活しています。植物や動物について深い知識を持ち、食料を大量に備蓄することもなく、周囲の自然と一体になったような暮らしをしています。
ここまでなら、「自然の中で生きる特殊な隠遁者」という話で済むかもしれません。
しかし作品は、すぐにその範囲を越えます。
アナスタシアには遠く離れた場所を認識するような能力があり、人の過去や未来を見通し、思考によって像を作り出し、離れた人間へ働きかけるかのような描写があります。人類の古い歴史について語り、現代文明は本来の人間の能力を失わせていると説明します。
さらに話は、子育て、健康、男女関係、国家、宗教、宇宙、祖先、土地の継承へ広がっていきます。
つまりアナスタシアは、単なる登場人物ではありません。
シリーズ全体の世界観を語る中心人物です。
だからこそ、実在性の問題は大きい。
もし本当に実在した人物なら、メグレはシベリアで極めて特異な思想を持つ女性と出会い、その話を世界へ伝えたことになります。
逆に創作なら、メグレは「アナスタシア」という人物を使って、一つの巨大な思想体系を物語として作り上げたことになります。
どちらにしても、かなり興味深い話です。
メグレ本人は「創作です」とは言っていない
まず確認できるのは、メグレ本人がアナスタシアの実在を主張していることです。
これは「読者が勝手に実話だと思い込んだ」という話ではありません。
メグレは作品内でも、後年のインタビューでも、アナスタシアを実際に会った人物として扱っています。
2018年に公開されたインタビューでは、アナスタシアとの最後の物理的な接触について尋ねられ、「最後は4か月前」と答えています。
この発言をそのまま受け取るなら、第1巻の出版から20年以上が経過した後も、メグレは「アナスタシアはタイガにいて、自分は会っている」という立場を維持していたことになります。
少なくとも私が確認した範囲では、後になって「実は文学的な創作だった」と撤回した形跡は見つかりませんでした。
ここまでは比較的はっきりしています。
メグレはアナスタシアを実在人物として語っている。
問題は、その次です。
メグレ以外の誰が、それを確認したのか。
なぜ彼女は公の場に姿を現さないのか
ここで当然、「そこまで有名になったのなら、一度くらい本人が姿を見せてもいいのではないか」と思います。
私も同じ疑問を持ちました。
作品の世界観から考えれば、アナスタシアは文明社会で有名人になることを望む人物ではありません。タイガでの生活を続け、メディアに出て自分の正しさを証明するような性格にも描かれていません。
そのため支持者側から見れば、「写真がない」「テレビに出ない」という事実は、それほど不自然ではないのでしょう。むしろ、アナスタシアらしいと感じる人もいるはずです。
ただし、検証する側から見ると話は別です。
「本人が姿を現したがらない」という説明は、存在を否定する証拠にはなりません。しかし同時に、存在を証明する証拠にもなりません。
ここは非常にややこしいところです。
人里離れた場所に暮らす人物だから資料が少ない。そう言われれば納得できる部分はあります。しかし、その説明自体が作品とメグレの証言の内側にある以上、外部検証には使えない。
私はこのテーマを調べながら、何度も同じ壁にぶつかりました。
「存在していてもおかしくない」という話は見つかる。
しかし「存在を確認した」という独立資料には届かないのです。
実在を裏付ける「独立した証拠」は見つからない
ここで調査は急に難しくなります。
アナスタシアの写真はあるのか。
本人を取材した第三者はいるのか。
彼女の存在を確認できる行政記録や現地記録はあるのか。
メグレとは無関係の人物が、同じ女性に会ったと証言しているのか。
こうした「著者の話とは別の経路から確認できる資料」を探しましたが、公開資料の範囲では決定的なものを確認できませんでした。
ここはかなり重要です。
メグレが嘘をついている、と言っているわけではありません。
しかし歴史上の人物や現実の事件を検証するとき、「本人がそう言っている」ことと、「第三者によって確認された」ことは分けなければなりません。
例えば、メグレが「私は4か月前に会った」と話したことは確認できます。
しかし、その4か月前の面会そのものを外部から確認できるわけではありません。
この違いを曖昧にすると、「メグレが実在を主張している」という事実が、いつの間にか「アナスタシアの実在は確認済みである」という話に変わってしまいます。
ネットの情報では、こういう変化がよく起こります。
最初は「本人が語った」。次の記事では「存在すると言われている」。さらに動画になると「シベリアに実在する謎の女性」。数回情報がコピーされるうちに、証言と事実の境目が消えてしまう。
今回、私はそこを分けて考えることにしました。


巻を追うほど「一人の女性の体験談」では収まらなくなる
もう一つ、実在性を考える上で無視できないのが、シリーズの広がり方です。
第1巻では、メグレとアナスタシアの出会いが物語の中心にあります。しかし巻を追うごとに、話は家族、教育、祖先、古代文明、宗教、国家、未来社会へと大きく広がっていきます。
「ヴェドルス」と呼ばれる古代の人々や、失われた歴史についての語りも登場します。
この段階になると、私たちは二つの問題を分けなければなりません。
一つは「アナスタシアという女性が存在したのか」。もう一つは「彼女の口を通して語られる壮大な歴史や世界観が事実なのか」です。
仮に実在する女性がモデルだったとしても、シリーズ全体の内容がそのまま歴史的事実だとは限りません。
逆に、後半の神話的な内容が疑わしいからといって、最初の出会いまで自動的に創作だと決まるわけでもありません。
この二つを一緒にすると、検証はすぐに「全部信じるか、全部否定するか」という話になってしまいます。
私は、それではもったいないと思います。
研究者はなぜ「実在問題」にあまり踏み込まないのか
もう一つ意外だったのは、アナスタシア運動を調べている研究者たちが、彼女の実在性を延々と論争しているわけではないことです。
宗教学や民俗学、社会運動の研究では、アナスタシアは「本の主人公」「神話的キャラクター」といった位置で扱われることがあります。
これは「研究者が創作だと証明した」という意味ではありません。
研究の対象が違うのです。
研究者から見ると、確認できないタイガの女性を追跡するより、その本を読んだ何千、何万という人々が実際に何を始めたのかを見る方が、観察可能な現象です。
そして『アナスタシア』の場合、その影響は本の中だけで終わりませんでした。
作品で語られる「家族農園」という構想に共鳴した人々が、実際に土地を求め、自然の中で家族単位の生活空間を作ろうとし始めました。ロシア国外にも関連する共同体やネットワークが広がっています。
もちろん、理想どおりの共同体が完成しているという意味ではありません。研究では、季節的な利用にとどまる場所や、建設途中の集落も多いことが指摘されています。
それでも、物語を読んだ人が土地を探し、家を建て、木を植え、暮らし方を変えた。
これは確認できる現実です。
だから研究者にとって重要なのは、「森の女性を発見できるか」だけではなく、一つの物語が、なぜ現実の行動を生み出したのかという問題になるのでしょう。
完全な創作だと断定する材料もない
では、客観的証拠がないのだから、アナスタシアはメグレの創作だと考えればいいのでしょうか。
私は、そこまで簡単にも言えないと思っています。
理由は、「創作ではない証拠があるから」ではありません。
逆です。
完全な創作だと確定できる証拠も、今のところ見つからないからです。
可能性はいくつも考えられます。
本当にアナスタシアという女性が存在した可能性。実在する誰かをモデルに、物語として大幅に再構成した可能性。複数の人物や思想を一人の「アナスタシア」に集約した可能性。そして、メグレ自身が思想を伝えるために生み出した文学的キャラクターである可能性。
あるいは、実際の体験にメグレ自身の解釈や記憶が長い年月の中で重なっていった可能性もあるでしょう。
現時点の公開資料から、この中の一つだけを選ぶことはできません。
だから私の結論は、少し地味です。
アナスタシアの実在は確認できない。しかし、創作だったとも確認できない。
なんだ、結局分からないのかと思うかもしれません。
私も最初はそう思いました。
しかし、この「分からない」という位置をきちんと確認したことには意味があると思っています。
なぜなら、その先で初めて本の内容そのものを冷静に見られるからです。
実在性とは別に、すでに起きてしまった「現実」がある
ここで少し考えてみたいことがあります。
仮にアナスタシアが完全な創作人物だったとします。
それでも、その物語を読んだ人々が現実に土地を求め、家族の暮らしを考え直し、共同体を作り始めたという事実は消えません。
逆に、アナスタシアが本当に存在したとしても、彼女が語ったすべての内容が自動的に真実になるわけではありません。
実在する人間でも間違うことはあります。
つまり、人物の実在と思想の正しさは別問題なのです。
これは当たり前の話ですが、アナスタシアのようなテーマでは意外と混ざりやすい。
「実在したなら超常能力も本物だ」でもなければ、「創作なら思想には価値がない」でもありません。
人物の問題と、語られた考えの問題は分けて検証する必要があります。
以前このブログでは、『アナスタシア』の形象学と『サピエンス全史』の「虚構」を重ねて考えた記事を書きました。
そこでは、人間が共有する「像」や「物語」が、国家や社会のような巨大な仕組みを支える可能性について考えました。
今回あらためてアナスタシアの実在性を調べていて、私は逆に妙な感覚を覚えました。
アナスタシア本人の存在は確認できない。
しかし、「アナスタシア」という像によって動いた人々は確認できる。
本人が見えないのに、その人物が生み出した影響だけは現実の世界に残っている。
これは、かなり不思議な構造です。
私が現時点で考えていること
正直に言えば、私はアナスタシアが実在したのか、まだ判断できません。
決定的な写真もなければ、第三者による独立した確認も見つからない以上、「実在した」と言い切ることはできません。
一方で、「全部メグレの作り話だ」と断定する材料もありません。
そして何より、作品を読んだ人々が現実に行動を起こしたという部分が気になります。
よくできたフィクションだから人を動かしたのか。
実体験に根差していたから異様な説得力を持ったのか。
それとも、アナスタシアという人物の実在とは関係なく、メグレが言語化した何かが当時のロシア社会、そして現代人の感覚に強く刺さったのか。
この問いに答えるには、次に「彼女が何を語っているのか」を見なければならないと思います。
ただし、第1回の結論はここで止めます。
アナスタシアは、著者ウラジーミル・メグレによって実在する女性として語られている。しかし、公開資料の範囲では、その存在を第三者が独立して確認した証拠は見つからない。
これが、今回の調査で私が確認できた一番正確な答えです。
曖昧な結論ではあります。
しかし「実在する神秘の女性」と最初から信じるよりも、「全部作り話だ」と笑って閉じるよりも、私はこの位置から続きを読んでみたい。
次回は、いよいよアナスタシアの話の中で私が以前から気になっていた「形象学」を掘ります。
日本語では「形象」と訳されますが、ロシア語の образ という言葉を調べると、単なる「頭の中のイメージ」では収まりません。
なぜアナスタシアの物語が現実の人間を動かしたのか。
その手がかりが、もしかするとこの言葉の中にあるのかもしれません。


