前回の記事では、ロシアの作家ウラジーミル・メグレが書いた『アナスタシア』シリーズについて、そもそもこれは何なのか、そして物語の中心人物であるアナスタシアという女性は本当に実在したのか、という入口の部分から考えてみました。
結論を先に振り返れば、シリーズそのものが存在し、世界各地に読者や影響を受けた運動が広がったことは確認できます。しかし、シベリアのタイガに住み、特殊な能力を持つアナスタシアという女性の実在については、書籍とは独立した形で確認できる証拠が十分にあるとは言えません。
では、そんな本をわざわざ深掘りする意味があるのか。
僕はあると思っています。
なぜなら『アナスタシア』シリーズには、アナスタシアという女性が実在したかどうかとは別に、妙に引っかかる考え方がいくつも出てくるからです。その中でも、僕が以前から特に気になっていたのが「形象」という考え方です。
形象学って、そもそも何なんだ?
日本語で『アナスタシア』関連の情報を追っていると、「形象学」という言葉を目にすることがあります。
ところが、この言葉を見て「なるほど、形象学ね」と理解できる日本人は、おそらくほとんどいないでしょう。僕も最初はよく分かりませんでした。
心理学なのか。哲学なのか。宗教思想なのか。それとも、いわゆる「引き寄せの法則」のロシア版なのか。
ここは最初に線を引いておく必要があります。
「形象学」を、現代科学で確立された一つの学問分野として扱うわけではありません。
ここでは『アナスタシア』シリーズの中で語られる「形象」という考え方を取り出し、ロシア語の意味、心理学や認知科学との接点、そして科学では確認されていない主張を分けて考えます。
つまり、「全部デタラメだ」と切り捨てるつもりもないし、「アナスタシアの言ったことはすべて真実だ」と信じるつもりもありません。
面白い部分だけを拾う。ただし、事実と思想を混ぜない。
いつもの僕のやり方です。
ロシア語の「образ」は、ただの画像ではない
形象を考えるうえで重要なのが、ロシア語の「образ」という言葉です。ラテン文字では「obraz」と書き、日本語ではオーブラス、あるいはオブラズに近い音になります。
これを単純に英語の「image」、日本語の「イメージ」と訳してしまうと、少し意味が狭くなってしまうように感じます。
образには、姿、形、像、人物像、心に描かれた像、表象、あるものが現れる姿、といった幅のある意味があります。さらに「образность」という言葉になると、物事を像として豊かに表現する性質、イメージを喚起する性質、といったニュアンスが強くなります。
つまり、スマホに保存されている一枚の画像のような「イメージ」だけではない。
人間の頭の中に形成され、意味を持ち、その人の認識を方向づける「像」。
僕は、とりあえずこう理解すると『アナスタシア』で語られる形象の話がかなり分かりやすくなると思っています。
頭の中の「像」が人間を動かしている?
たとえば、「海辺の家で静かに暮らしたい」と考えたとします。
単なる言葉として考えるだけなら、それで終わるかもしれません。しかし頭の中に、かなり具体的な光景が浮かんだらどうでしょう。
窓の向こうに海が見える。朝は少し冷たい風が入ってくる。小さな庭がある。仕事は今より少なく、午後にはギターを触っている。
こうなると、それは単なる「海辺に住みたい」という言葉ではなくなります。
頭の中に一つの世界ができている。
これが「形象」という考え方を理解する一つの入口ではないかと思います。
そして、ここからが面白い。
その像を何度も思い浮かべている人は、海辺の中古住宅の記事に目が止まるかもしれない。地方移住の制度を読むかもしれない。今の仕事を続けながら別の収入源を作れないか考え始めるかもしれない。
つまり、最初に頭の中にあった像が、現実を見るフィルターのように働き始めるわけです。
「イメージが現実になる」を魔法抜きで考えてみる
スピリチュアルな世界では、「強く願えば現実になる」「宇宙に意図を放てば現実が引き寄せられる」といった説明がよく使われます。
僕は、ここをそのまま信じることには慎重です。
しかし一方で、イメージが現実にまったく影響しないと考えるのも、かなり乱暴ではないでしょうか。
魔法を持ち出さなくても、次のような流れは考えられます。
- 頭の中に具体的な像を作る
- その像に関係する情報へ注意が向きやすくなる
- 選択する情報が変わる
- 日常の小さな判断が変わる
- 行動が繰り返される
- 人間関係や生活環境が少しずつ変わる
- 数年後、最初の像に近い現実が形成される
こう考えると、「イメージが現実をつくる」という言葉は、必ずしも超常現象として説明する必要がありません。
イメージが注意を変え、注意が選択を変え、選択が行動を変え、行動の積み重ねが現実を変える。
これはかなり現実的な話です。
視覚化、自己暗示、プラセボとは同じなのか
ここで思い浮かぶのが、スポーツなどで使われるイメージトレーニングです。
実際の動作を行う前に、頭の中で動作や状況を具体的に思い描く。成功した場面だけではなく、動作の順序や身体感覚まで想像する場合もあります。
認知科学で扱われる「mental imagery」、つまり心的イメージも、外部から実際の視覚入力がない状態で、知覚に似た経験を頭の中に形成する現象として研究されています。
しかし、ここで注意したいのは、イメージトレーニングが存在することと、思考が外部の物質を直接変化させることは別の話だという点です。
自己暗示も同じです。自分に対する言葉や期待が、物事の解釈や行動に影響することはあり得ます。また医療研究では、期待と身体反応の関係を考える際にプラセボやノセボという現象が研究されています。
だからといって、「想念を飛ばせば離れた人間を治療できる」「強い形象を作れば外部の物質が変化する」という主張まで自動的に証明されるわけではありません。
ここは、似ているようで非常に大きな境界線です。
形象は、一人の頭の中だけで終わらない
僕が『アナスタシア』の形象という考え方で最も面白いと思うのは、実は個人の願望実現の部分ではありません。
複数の人間が同じ像を共有したらどうなるのか。
こちらです。
国家。会社。ブランド。お金。肩書。理想の家族像。成功者という人物像。
これらは目に見える物質だけで成立しているわけではありません。その背後には、多数の人間がある程度共通して受け入れている意味や物語があります。
一万円札の紙そのものに、一万円分の食料を生み出す能力があるわけではない。それでも僕らは、その紙を一万円として扱います。
なぜか。
皆が、その意味を共有しているからです。
僕は以前、この部分を『サピエンス全史』で語られる「虚構」の考え方と『アナスタシア』の「形象」を並べて考えたことがあります。

もちろん、両者は同じ思想ではありません。
しかし「人間は共有された像や物語によって大きな集団を動かすことができる」という部分には、妙に重なるところがあります。
一人の頭の中にある空想なら、ただの妄想で終わるかもしれない。
しかし千人が共有すれば運動になる。一万人が共有すれば市場が生まれる。数百万人が共有すれば制度や国家の方向さえ変える可能性がある。
こう考えると、形象というものは決して軽い話ではありません。
ここで一番危ない誤読がある
ただし、『アナスタシア』を読むときには一つ注意した方がいいと思います。
それは、一部に心理学や社会現象と接点があるからといって、作中のすべての主張が科学的に証明されたと考えてしまうことです。
これは本当によくある。
「思考が行動に影響することは科学的に分かっている」
ここまではいい。
ところが次の瞬間、
「だから思考には宇宙へ届く未知のエネルギーがある」
「だからアナスタシアの遠隔能力も科学的に説明できる」
「量子力学を考えれば可能性はある」
という話へ飛ぶ。
いや、ちょっと待てと。
その間に何段階あるんだよ、と思うわけです。
| 区分 | 本記事での扱い |
|---|---|
| 確認されている現象 | 心的イメージ、注意、期待、認知、行動の関係は研究対象になっている |
| 有力な解釈 | 具体的な像が人間の選択と継続行動を方向づけ、結果として現実の変化につながることは考えられる |
| 思想としての主張 | 共有された形象が社会や文明の方向を作るという『アナスタシア』的な世界観 |
| 未確認 | 想念そのものが空間を越えて外部の人間や物質へ直接作用するという主張 |
| 注意が必要 | 量子、波動、周波数、エネルギーなどの科学用語だけを使い、未検証の因果関係を証明済みのように説明すること |
僕は、『アナスタシア』の面白さを守るためにも、この区別は必要だと思っています。
何でも信じてしまった瞬間、考える必要がなくなる。
逆に「疑似科学だ」の一言ですべて捨てても、そこに含まれている思想的な面白さを見失う。
だから面倒だけど、一つずつ分けるしかない。
なぜ杉、木、土地、家族という「像」が何度も出てくるのか
ここで『アナスタシア』シリーズ全体へ目を戻してみます。
この物語には、森、シベリア杉、土地、植物、家族、子供、家、庭といったものが繰り返し登場します。
偶然でしょうか。
僕は、これらが単なる背景ではなく、読者の頭の中に一つの「生活の像」を形成する働きをしているように感じます。
都会のマンション。満員電車。会社。消費。借金。大量の商品。
それとは対照的に、自分の土地がある。木を植える。家族がいる。食べ物を育てる。何十年、何百年先まで残る場所を作る。
どちらが正しいかという話ではありません。
しかし後者を何度も具体的に描写された読者の頭には、ある一つの世界が形成されていく。
これこそ、シリーズそのものが読者に対して行っている「形象の形成」ではないか。
そんなことを僕は考えてしまいます。
人間は「繰り返される象徴」に意味を感じる
僕は昔から、古代のレリーフや宗教画に同じ形が何度も出てくると気になります。
翼。蛇。円。目。樹木。そして松ぼっくりのような形。
以前、シュメール文明のレリーフに繰り返し描かれる松ぼっくり状の物体を見て、「これは松果体を表しているのではないか」と考えたことがあります。
念のため書いておきますが、松ぼっくり状の物体=松果体というのは確認された事実ではありません。僕自身の仮説、というより妄想に近い考察です。
その記事はこちらです。

ただ、ここで言いたいのは松果体の話ではありません。
人間は、繰り返し提示される形に「何か意味があるのではないか」と感じる生き物だということです。
現代の企業ロゴでも同じです。宗教のシンボルでも同じ。国旗でも同じ。
形は、ただの形ではなくなる。
そこへ物語、感情、記憶が結びつき、一つの「像」が形成される。
『アナスタシア』で何度も登場する杉や森や家族農園も、同じ視点から見ると非常に興味深い。
形象学を現代語に言い換えるなら
では結局、「形象」とは何なのか。
僕なりに、できるだけスピリチュアル用語を使わずに言い換えてみます。
その像を複数の人間が共有すれば、集団の行動が変わり、やがて社会や制度にまで影響することがある。
これなら、僕にはかなり理解できます。
僕自身、このブログもそうです。
最初から完成したCLEWというものが存在していたわけではありません。
「気になることを調べる場所にしたい」「一見関係のない話をつないでみたい」という、かなり曖昧な像が最初にあった。
その像に従って記事を書き続けた結果、AI、古代史、社会、予測、音楽、宇宙まで混ざった、よく分からないブログになった。(笑)
しかし、よく考えれば、最初の像が少しずつ現実の形になっているとも言えます。
別に宇宙へ念を送ったわけではありません。
頭の中にあったものに沿って、何年も選択を繰り返した。
それだけです。
でも、その「それだけ」が意外に大きい。
第2回の結論 形象学の面白さは「魔法」ではない
『アナスタシア』の形象という考え方を調べていると、どうしても「思考は現実化する」「引き寄せ」「想念エネルギー」といった方向へ話が流れやすくなります。
しかし僕は、そこだけを見ると、この思想の面白い部分を逆に小さくしてしまうような気がします。
人間は、頭の中に存在しない世界を作ることができる。
まだ存在しない家を想像できる。まだ存在しない会社を考えられる。まだ存在しない国や制度や技術を思い描くことができる。
そして、その像を言葉や絵や物語に変え、他人へ渡すことができる。
他人が同じ像を見る。
複数の人間が動き始める。
やがて、本当に何かが作られる。
これだけでも十分に不思議ではないでしょうか。
だから僕は『アナスタシア』の形象という話を、単純なスピリチュアル思想として片付けたくありません。
ただし同時に、作中で語られる特殊能力や、想念が外部の物質へ直接作用するといった主張まで、科学的に確認された事実として扱うこともできません。
信じるか、否定するか。
その二択ではなく、どこまで確認でき、どこから思想で、どこから未知なのかを分ける。
僕はその境界を見てみたい。
そして次回は、この「形象」が具体的な生活の姿になったとも言えるシベリア杉と家族農園について考えてみたいと思います。
なぜ『アナスタシア』の思想は、最後には「土地を持ち、木を植え、家族の空間をつくる」という話へ向かうのか。
調べてみると、これは単なる田舎暮らしのすすめではなさそうです。


