『アナスタシア』について、これまで2回にわたって考えてきました。
第1回では、そもそもアナスタシアという女性は本当に実在するのか、著者ウラジーミル・メグレとは何者なのかを調べました。第2回では「形象」という少し分かりにくい考え方を取り上げ、人間が頭の中に描いた像と、現実の行動との関係について考えました。
そして今回が完結編です。
最後に取り上げたいのは、アナスタシアシリーズの中で最も派手な話ではありません。テレパシーでも宇宙エネルギーでもない。もっと地味で、ものすごく具体的な話です。
家族が自分たちの土地を持ち、木を植え、子どもを育て、その場所を次の世代へ残す。
簡単にいえば、これだけです。
ところが僕は、アナスタシアについて調べていくうちに、ここが一番不思議に思えてきました。なぜなら、アナスタシアが本当にシベリアの森にいるのかは確認できないのに、彼女の言葉を読んだ人たちが、実際に土地を探し、木を植え、暮らし方を変えているからです。
実在を確認できない人物が語った物語によって、現実の土地が変わっている。
今回の記事で僕が出したい結論は、ここにあります。
壮大な宇宙の話が、なぜ最後は「庭」に戻るのか
『アナスタシア』シリーズには、不思議な話が大量に出てきます。人間の思考、宇宙、植物との交流、古代文明、教育、子ども、男女の関係。そして現在の科学では確認されていない特殊な能力についても語られる。
だから、この本を「スピリチュアルな本」と分類する人がいるのは当然でしょう。実際、僕自身も最初はそういう本だと思っていました。
ところがシリーズ全体を眺めてみると、少し変な構造になっています。
宇宙の話をしていたかと思えば、最後は土地の話になる。人類の未来を語っていたはずなのに、最後には「どこに木を植えるか」「池をどこにつくるか」という話に戻ってくるのです。
土地、木、水、家、家族、子ども。
思想というものは普通、話が大きくなる方向へ進みます。個人から国家へ、国家から世界へ、そして人類や宇宙へと広がっていく。
ところがアナスタシアは逆です。宇宙まで話を広げた後に、最後は「あなたの家族が暮らす小さな土地」に戻ってくる。

宇宙の話をしておいて、最後は庭づくりか。ずいぶん話が小さくなったな。

逆かもしれません。大きな思想を、実際に人間が行動できる大きさまで縮めた。それが家族の土地だった、と見ることもできます。
この見方をすると、アナスタシアシリーズの輪郭が少し変わって見えてきます。
「自然と暮らそう」では人は動かない
アナスタシアの思想から生まれた「Kin Domain」「родовое поместье」と呼ばれる考えでは、おおむね1ヘクタール程度の土地が重要な単位として語られます。
1ヘクタールは1万平方メートル。正方形なら約100メートル四方です。日本の普通の住宅地を基準に考えれば相当広いですが、一つの小さな環境をつくる広さとしては頭の中で想像できない数字ではありません。
その土地の周囲に木や低木を植える。一部を森にする。果樹を植え、小さな池をつくり、野菜を育てる。そして、その中央や一角に家族が暮らす。
もちろん、1ヘクタールという面積が科学的に「人間にとって唯一正しい生活面積」だと証明されているわけではありません。気候も土壌も水も違う。北海道と沖縄でも条件は全く違います。
では、なぜ1ヘクタールなのか。
僕は、数字の正しさよりも、具体的な大きさを提示したことに意味があると思っています。
「自然と共生しましょう」と言われても、人は何をすればいいのか分かりません。「地球を守ろう」と言われても、話が大きすぎる。
しかし、「100メートル四方の土地を想像してください。どこに家を置きますか。どんな木を植えますか。池はどこにつくりますか」と聞かれた瞬間、人間の頭の中には風景が現れ始めます。
「自然を大切に」という理念を、「100メートル四方の土地」という具体的な像に変えた。
第2回で考えた「形象」という話が、ここでつながってきます。

ぼんやりした思想は、人を感動させることはあっても、なかなか行動には変わりません。しかし頭の中に具体的な風景ができると、次の質問が生まれる。
土地はいくらするのか。どこなら買えるのか。井戸は必要なのか。何を植えられるのか。
つまり、思想が設計図へ変わるのです。
家族農園というより「家族の記憶装置」ではないか
日本語でアナスタシアの「家族の土地」を説明すると、自給自足や家庭菜園の話として理解されやすいと思います。
しかし、少なくともシリーズの思想を読む限り、それだけではありません。
野菜を何キロ収穫できるか、年間の食費がいくら安くなるか、農業収入だけで暮らせるか。そういう経済効率を中心に置いた農園構想ではないのです。
むしろ重要なのは、「誰がその場所をつくったのか」という記憶です。
祖父が植えた木。母親が選んだ花。父親が掘った池。子どもが遊んだ場所。家族で座った木陰。
それらが何十年も積み重なっていく。

でも、それなら普通の実家や古い農家でも同じじゃないのか。

違いがあるとすれば、最初から「子孫に残す風景」を意識して場所を設計する点でしょう。現在の便利さではなく、まだ生まれていない人間の記憶まで考えている。
僕らが家を買う時、普通は住宅ローンを考えます。駅から何分か、職場へ通えるか、土地の価格は上がるか、将来売れるか。
つまり、自分が生きている期間の損得を中心に考える。
ところがアナスタシアの家族の土地は、最初から自分が死んだ後の風景を考えている。
「自分がいなくなった後、この木を誰が見るのか」
ここまで来ると、僕には農業思想というよりも、土地を使った家族の記憶装置のように見えます。
シベリア杉は本当に特別な木なのか
シリーズの題名は『ロシアの響きわたる杉』。英語では『The Ringing Cedars of Russia』として知られています。当然、杉はこの物語の中心的な象徴です。
植物の名前について一つ整理しておくと、ロシア語圏で「シベリアのケードル」と呼ばれる木は、一般に英語でSiberian cedarと訳されますが、植物学的にはCedrus属の真正の杉ではなく、Pinus sibirica、シベリアマツの仲間です。
日本人が「杉」と聞いて思い浮かべる杉林とは、少し違います。
そしてシリーズの中では、長い年月を生きた杉が宇宙からのエネルギーを蓄え、特別な状態になると「響く」「鳴る」といった説明が出てきます。
ここは、僕ははっきり線を引きます。
| 項目 | 整理 |
|---|---|
| Pinus sibiricaという樹木 | 実在する |
| ロシア語圏で「シベリア杉」に相当する名称が使われる | 事実 |
| アナスタシアシリーズの重要な象徴である | 事実 |
| 杉が宇宙エネルギーを特殊な形で蓄積する | シリーズ内の思想・主張 |
| 特別な杉が情報を伝えるように「響く」 | 科学的に確認された事実とはいえない |
| 杉によって特定の病気が治る | 医学的根拠の確認が必要 |
僕は、こういう話を全部笑って終わらせる必要はないと思っています。しかし、象徴としての杉と、物理現象として証明された杉の能力をごちゃ混ぜにするべきでもない。
杉が物語の中で重要な象徴であることと、杉に超常的能力があることは別の話です。
ただ、象徴として見るなら非常に分かりやすい。
人間よりはるかに長い時間を生きる木。人間が死んだ後も同じ場所に立ち続ける木。種をつけ、次の世代へつながる木。
家族の土地という思想と一本の大木。これほど分かりやすい組み合わせはありません。
そして本当に、土地を買う人たちが現れた
ここが僕にとって、アナスタシアシリーズの一番重要な部分です。
「家族の土地」という考えは、本の中だけでは終わりませんでした。読者たちが集まり、土地について話し、実際に土地を探し、木を植え、家を建てる動きへ発展しています。
もちろん、すべての集落が理想どおりに機能していると確認したわけではありません。人間関係の問題もあるでしょう。金銭問題もある。理想郷をつくろうと集まった人間が、必ず仲良く暮らせるわけではありません。
それでも、一つだけ確かなことがあります。
本に書かれた「まだ存在しない風景」が、人間を動かし、現実の土地に木を生やした。
第2回で僕は、「イメージは現実をつくるのか」と考えました。
ここには一つの答えがあります。
超能力は必要ありません。イメージを共有した人間が行動すれば、森のなかった場所に木が植えられる。池のなかった場所に池ができる。家のなかった土地に家が建つ。
これは文字どおり、頭の中にあった風景が物質世界に現れた状態です。

じゃあ結局、形象学って「思えば叶う」という話なのか。

違います。「思っただけ」では何も起きない。像が人間の注意を変え、選択を変え、行動を変えた時、初めて現実が動く。少なくとも確認できるのはそこまでです。
動かしたのは謎の波動ではありません。人間です。
僕は、むしろその方が面白いと思う。
なぜ現代人は「自分の土地」に惹かれるのか
では、なぜ多くの人が、この土地のイメージに惹かれたのでしょうか。
アナスタシアをめぐる運動は、新宗教、New Age、自然宗教、現代ペイガニズムなど、さまざまな枠組みで論じられています。分類が一定しないということは、それだけ思想の境界が曖昧だということでもあります。
僕は、その曖昧さが広がった理由の一つではないかと思います。
厳密な教義を覚えなくてもいい。決まった教会へ毎週通わなくてもいい。難しい哲学用語を勉強しなくてもいい。
「都会の生活に疲れた」「食べるものを自分でつくりたい」「子どもをもっと自由に育てたい」「誰かがつくった仕組みの中で一生を終えたくない」。
そういう感覚を持っている人なら、どこか一部分に引っかかります。
アナスタシアの超能力は信じない。古代史の話も信じない。でも、自分の土地に木を植えるという部分には惹かれる。
全部を信じなくても参加できる思想。
これが強い。
ただし「自然」という言葉には危険もある
ここまで、アナスタシア思想の面白い部分を中心に書いてきました。しかし完結編なので、僕が気になった危険な部分にも触れておきます。
「自然な生き方」という言葉は非常に魅力的です。僕自身も惹かれます。
しかし、何が自然なのか。誰が決めるのでしょうか。
自然な家族。自然な男女。自然な民族。自然な教育。本来の社会。
こういう言葉を強く使い始めると、その反対側に必ず「不自然な人間」が生まれます。
そして「自分たちは本来の生き方を知っている」「現代社会は堕落している」「古代人は真実を知っていた」という物語が強くなりすぎると、世界を二つに分け始める。
自然と人工。純粋と堕落。目覚めた人と眠っている人。本当の伝統と偽物の社会。
これは、僕が普段から気になっている陰謀論の構造ともよく似ています。
さらにアナスタシア運動については、一部の地域や受容のされ方の中で、民族主義、反ユダヤ主義、極右的思想との接点が批判されています。
ここも両極端に走るべきではないでしょう。
「アナスタシアを読む人は全員危険だ」ではない。しかし「自然を愛する思想だから問題などない」でもない。
本の記述と、それを解釈する人は別です。個人の読者と、地域のコミュニティも別です。そこから派生した政治思想も別に見なければならない。
僕がこの3回の記事でずっとやりたかったことも、結局それでした。
面白いから信じるのではない。怪しいから全部捨てるのでもない。一つずつ分ける。
3回調べて、僕の判断はこうなった
| 主張・現象 | 僕の判断 |
|---|---|
| ウラジーミル・メグレがシリーズを書いた | 確認できる事実 |
| シリーズを基盤に家族の土地や集落づくりの運動が生まれた | 確認できる事実 |
| 約1ヘクタールの家族の土地が中心思想の一つである | 確認できる |
| アナスタシアという女性が記述どおりシベリアに実在する | 独立した証拠を確認できない |
| 人間のイメージが注意・判断・行動へ影響する | 心理学・認知科学と接点がある |
| 思考だけで遠隔地の物質や人間へ直接作用する | 確立した科学的事実ではない |
| 特別な杉が宇宙エネルギーを蓄え「響く」 | 物語・思想上の主張 |
| 1ヘクタールの土地が全人類にとって唯一正しい生活形態である | 思想的主張 |
| アナスタシア運動はすべて危険な極右運動である | 一括りにするのは不正確 |
| 一部の言説や受容に政治的・排外的問題が指摘されている | 無視すべきではない |
こうして並べると、僕の中ではかなり整理されました。
事実として確認できるもの。思想として読むべきもの。現在の科学では確認できないもの。そして注意して見るべきもの。
全部を同じ箱に入れるから、信者か否定派かという二択になる。
僕は、そのどちらにもなりたくありません。
僕が本当に知りたかったのは「アナスタシアは本物か」ではなかった
3回の記事を書いて、ようやく自分でも分かりました。
最初、僕はアナスタシアという女性が本当に存在するのかを知りたかった。超能力は本当なのか。杉は本当に響くのか。
もちろん今でも気になります。
でも調べていくうちに、疑問の中心が少しずつ変わってきました。
僕がシュメールのレリーフを見る時も同じです。なぜこの形が何度も描かれているのか。単なる装飾なのか。本当は何を意味していたのか。

結局、僕が知りたいことはいつも同じです。
「で、本当はどうなんだ?」
証拠がないなら「証拠がない」と書くしかありません。しかし、証拠のない話が現実の人間を動かしたという事実まで、なかったことにはできない。
実在を確認できない一人の女性の物語がある。それを多くの人が読む。その中の一部が土地を探し、木を植え、家族の暮らし方を変え、集落をつくる。
僕には、これだけで十分に奇妙です。
完結編の結論 アナスタシアの最大の力は「超能力」ではない
最後なので、曖昧にせず僕の結論を書きます。
アナスタシアという女性が、メグレの記述どおりシベリアに実在するのか。僕には確認できませんでした。
彼女が思考だけで遠くの人間へ影響できるのか。宇宙の情報を読み取れるのか。特別な杉が宇宙エネルギーを蓄えて響くのか。
これらを科学的事実として認める根拠は、僕には確認できませんでした。
ここは明確です。
しかし、それでアナスタシアシリーズを「何もない作り話」として捨てるのも、僕は違うと思います。
僕の結論はこうです。アナスタシアシリーズの本当の力は、超能力の証明ではない。「まだ存在しない暮らしの風景」を人間の頭の中に具体的につくり、その一部を実際に行動させたことです。
一人の作家が、一人の女性の話を書いた。
その女性は、土地を思い描けと語る。木の位置を考える。池を考える。子どもが走る姿を考える。まだ存在しない未来の風景を頭の中につくる。
そして、一部の読者は本当に土地を手に入れ、木を植えた。
これが僕にとっての「形象学」の最も現実的な答えです。
イメージそのものが魔法の力で物質を動かしたのではない。イメージが人間を動かし、人間が物質を動かした。
森のなかった土地に木が立った。池のなかった場所に水がたまった。家のなかった場所に家ができた。
そう考えると、アナスタシアシリーズそのものが、一つの巨大な「形象」だったのかもしれません。
シベリアの森。一人の女性。一本の杉。家族。子ども。そして自分たちの土地。
その像を見た人間が動いた。
魔法ではない。
しかし僕には、それでも十分に不思議です。
人間は、まだ存在しない世界を頭の中につくることができます。それを言葉にし、絵にし、物語にし、他人の頭の中にも同じ風景を見せる。そして時には、集団で本当にその風景を現実へ持ち込んでしまう。
国家もそうかもしれない。宗教もそうかもしれない。会社も、ブランドも、革命も同じなのかもしれない。
そして、小さなブログもたぶん同じです。
最初にあるのは、まだ誰にも見えていない一つの像です。
『アナスタシア』を全面的に信じる必要はない。スピリチュアルだからと笑って終わる必要もない。
未確認のものは未確認として残す。危険な思想は注意して見る。その上で、それでも最後に残ったものを考える。
僕の手元に最後に残ったのは、アナスタシアの正体ではありませんでした。
人間は、頭の中にどんな世界を描き、その世界を現実にするために何を始めるのか。
結局、僕が面白いと思ったのはそこです。
アナスタシアシリーズについては、これで一度終わりにします。
答えが出たからではありません。
「本当はどうなんだ?」という最初の疑問が、もっと大きな疑問に変わったからです。
僕にとっては、たぶんそれで十分なのだと思います。


