僕らは生まれた時から「能力否定」され続けている? 自分の本当の価値に気づけ!

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efficacy エフィカシー とは自分の能力を評価することであり、それは他者の「自分に対する評価」を自らが受け入れることで確定する

この記事ではエフィカシーについて書いています。

「え? エフィカシーってなに?」 って方は、ご自分でこの言葉を検索してみてください。

いろいろと情報はありますが、ここでは私なりの理解で書いています。

意味としてはズバリ、見出しに書いたとおりです。

僕らは生まれた時から「与えられた人間関係」のなかで育っていきますが、その過程においてさまざまな「評価」というものを他者から下されていきます。

両親、親戚のおじさん、おばさん、同級生、先生などなど

しかも勝手にです(笑)こちらからお願いしているわけでもないのに、勝手に評価されていきます。その昔、通知簿というのが毎学期末に渡されていたのですが、そこにこと細かく成績はもとより、生活態度とかも書き込まれていましたね(笑)今はどうか知らないが。

ヒトというのは勝手に他者の能力をラベル付け・・・というかランク付けというのか、そういう行為を通して分類していくわけですよ。

そして当人の意思とは関係なく、過去の実績だけをみて「人間としての評価」を下します。

将来、何ができるかではなく、過去に何をやったか? で、その人の未来の可能性を決めてしまうわけです。

結果、まだ幼いにもかかわらず、「ああ、僕は運動神経が悪いんだ」とか、「なんて頭が悪いんだろ?」とかね。そう思い込むようになる。

 

非常に残酷なことだと今は思えるのですが、このようにして僕らは「身近な人によって自己の能力を限定され」そして、自分でも「それは本当のことだ」と思い込むようになり、自らを他者の評価によってがんじがらめにされ、生きていく道を狭められることを余儀なくされていきます。

 

あなた、思い返してみて欲しいのですが、親からどんな言葉をかけられていましたか?

あるいは小学校時代に先生にどんなことを言われてましたか?

僕としては思い出すだけでも腹立たしい。本当にムカつくことが多すぎて、眠れなくなる。(おおげさじゃないよ)

つまり、何が言いたいかというと、僕らはあまりにもくだらないヤツらのせいで「この世での生き方」をメチャクチャにされてしまってるんです。

 

 

ここまで読まれて、反論したくなった方もいるであろうことは容易に察しが付く。

でも僕は反論は受け付けない。

この世の中は、「関わる値打ちのない人」 というのが圧倒的多数なんですよ。

しかも腹が立つことに、自分が教えを請う人を自分で選べないんですよね(笑)とくに幼い時期にはね。

 

自分の能力に対する評価を高めろ

おそらくこの記事を読んでいるであろう「あなた」は何かを変えたいと願ってるはずです。つまり自分を変えたい。

自分を形づくっている殻を打ち破り、大きくプラス方向へ変わりたいと願っている。僕もそうだけど。

ここで問題になるのがエフィカシーというわけです。

長年の蓄積で凝り固まった「自己評価」というものをぶち壊さなければならない。

ここでエフィカシーの定義をあらためて書いてみます。

ゴールを達成する自分の能力を評価すること

ゴールというのは、まあ目標ですね。誰かに止められてもやるようなこと。言い換えればあなたや僕が「熱烈に好きなコト」ともいえる。じゃないと本気になれないでしょ?

これを達成できる能力が自分にはある・・というように自分の力、能力を正しく評価してやる。

これは全部、自分でやるのです。けっして他人に評価はさせない。

 

自己暗示にも似ていますが、「自分にはその力があって、そのポジションにふさわしいヤツだ」ということを心の底から確信を持って信じる。

 

他人というのは、あなたにとってなーんにも責任を負っていません。そんな奴らの言うことなんかに耳を傾ける必要なんてないのです。

孤独を恐れるな

さて、僕らは人間関係からいかに大きな影響を受けているか? あるいは受けてきたか? ということを書いてきました。

人間関係というのは僕らの「認知機能」・・すなわち外の世界及び自分自身の内面について本当に大きな影響を与えています。というわけで「孤独とエフィカシー」なんですが・・

僕がエフィカシーを語る上で、どうして孤独について書くのか?

それは 「孤独イコール悪」 ではない からです。とかく「孤独」という言葉からはマイナスのイメージが強調されがちですが、僕は全然そうは思っていません。

いわく、友達がいないとか、ご飯を食べる時はひとりぼっちであるとか、なぜか嫌われ者で人が寄り付かないとか・・

ほんとに一般的には良いイメージがありませんね。

 

しかし、むしろヒトは群れることによって「考え方を固定化」され、モノの見方・・・すなわち認知を平坦化、平均化されてしまい、独創的なモノの見方をすることができなくなっていくんじゃないかと思います。

 

なおかつ、勝手に自分に対して評価を下されてしまい、それを受け入れることを強制されるのですね。自分じゃ「そんなことない」と思っていたとしても。

だから、エフィカシーを高めるためには、人との交流というのは逆にマイナスになる。とはいっても、それは交流を持つ相手の「中身」によるんだけどね。

なんでもかんでも交流を絶つというのではなくて、自分にとって有益な交流を持つという意味で、付き合いは厳選すべきなんです。

くだらない友人・・というか、どうでもよい人間関係なぞクソくらえです。どんどん捨てるべきなのです。なにしろ世の中のほとんどはクズだと思っていいですから (笑)

ところで人がなぜツイッターやインスタグラムなどのソーシャルメディアでフォロワー数を競うのか? その理由を考えてみたことはありますか?

あれは、そいつらの自己承認欲求の満足とお金儲けのためなのですよ? 要するに自分の影響力を高めるためだけのツールなわけです。

あなたが世の中に対して影響力を高めたいのならば、どんどんこれらのツールを使って、いわば「仮想的あなたのアバター」を広げていけばいいのです。僕はそんなこと興味がないからやらないだけです。

僕が目指すのは、あくまで自分で設定したゴールのみであり、そこに到達するために一切のノイズを排除し、自分の能力、そしてその自己評価を高めていくことだけです。

だから「孤独」など怖くはないし、むしろ自らそういう環境に身を置く。繰り返しますが、ほとんどの人間関係というのは大した意味などないです (笑) むしろ有害だと言っていい。

僕自身は一般的に言われる「友人」というのもいませんし、何をするにしてもいっつもひとりぼっちです。ですがこれを寂しいとか、悲しいことだとは微塵も思っていません。逆にヒジョーにすがすがしく、トラブルに巻き込まれることもなく、むしろ望むところだと感じていますよ。

終わりに、とにかく自己評価を下げるモノっていうのを、有形無形を問わず自分から遠ざけることです。

自分を守るのは自分しかいないんですよ。

大事なことですが、自分を卑下するなんてことは間違ってもやってはいけない。

「自分は無知でバカなんだ」ということを知るのは大事なことなんですが、それに気づけばあとは自分の能力を高めることを考えるだけでいいのです。

 


 

この記事が誰かの助けになればいいですね。おわり。

 

 

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