clew

気になるモノ 気になる人 気になる言葉

*

音楽を考える上での出発点をどこに求めるか?

      2016/02/08

音楽を ”やりたいようにやる” というのは答えになっていない。

さて、音楽、楽曲ですね、それを制作、創造するときにどんなことを考えているのか?

これは人によっていろいろ答え方はあると思います。目的にもよりますし、個人それぞれに動機がありますからね。たとえば自分の好きなミュージシャンに憧れてコピーから始めて、そして良く似たような楽曲を作ったりします。

あるいは感性のおもむくまま自由に音を重ねていってループをつなぎあわせて一つの作品に仕上げる、またダンス用にピッタリ沿うような楽曲が好きだとか・・まあいろいろあります。

僕の場合は上に挙げたような例ももちろんあるんだけれども、もっと何かこう ”根源的” なものを求めているような気がします。

今回はその根源的なものについて思いつくまま書いてみます。

 情緒的?なものは一切考えない。

まあ作曲なんですけど、その際に考えることについて。

たとえば ”美しいメロディ” ってのがあります。んでメロディってなんぞや?っていうといわゆる単旋律ですね。一般的にはそういうと思う。

このときに ”本当にメロディしかアタマに流れていないのか?” っていうのがあります。

僕はこれにはちょっと懐疑的で、メロディにはすでにハーモニーが含まれている と思うんですよ。メロディってのはハーモニーがあって初めて個性がでる。単旋律だけでは存在しないといっていいんじゃないかと思います。

創作段階の話ではありませんが、メロディの分析段階での手法はすでに確立されていますね。

メロディをアナライズする時、まず現れる音すべてについて書き出してみます。これはひとつの区切り、一部分だけでかまいません。

音が連続していようが、あるいは途中で休止があっても普通は人間が聴くと ”必ず調性感が生じる” と思います。もちろん例外もありますが。

基本的には ”音価の大きいもの” つまり ”調性を感じる区切り、フレーズ” のなかで中心的役割を受け持つ音 があります。繰り返し現れる音や長く伸ばされる音などがそうです。

たいていの場合、音価の大きい音はハーモニーを構成する音であり、ルート音、3度、5度、7度 ~ですね。

逆に細かい音価、一部にしか現れない音というのは、ハーモニーのなかで重要な役割は担っておらず、経過音、もしくはテンションノート、あるいはノンコードトーンとなる。

こういう理屈からメロディを見直してみると、ハーモニーをどういうふうに付ければより自然に聴こえるか見えてきます。

そしてその付けられたハーモニーがリズムを生み出します。ハーモニックリズムというやつですね。これらはメロディにぴったりと食いついてきます。

だから鼻歌?でちょこっとメロディを創作したぐらいは作曲とは思わない。これにちゃんとハーモニーをつけたのが ”曲の原型” になると思うんですね。

んで、もうひとつの要素・・リズムってのは、すでにメロディに内包されている。メロディを少しいじるとそれにあわせてハーモニックリズムも変化します。

すべてをバラバラに考えるんじゃなくて、メロディにはすべての要素がすでに含まれてしまっている。

ハナシが若干それてしまいましたが、情緒的うんぬんといった創作態度というのは、どうも曖昧すぎて僕にはよくわからんです。僕にそういう感性がまったくないとかいう話ではなくて、もっと理知的?というか言葉で説明できるものでなくてはならないといった感じです。

 

感情表現、あるいはメッセージとしての音楽表現の否定

僕は ”歌詞否定派” なんです。歌はどうでもいい。歌詞の内容などまったく興味はありません。ヴォーカルはあくまでサウンドとして聴く。だからインスト好きだし、歌モノでも良いと感じるものはあるけれども、そのメッセージなんて興味はない。

音楽はあくまで音楽であり、”詩や文学表現とはべつもの” ってのが持論ですね。一般的な音楽では、これらが一体となって作品となっていますけど。たとえば J-POP っていうのかな。そういうの。あるいはAKBとか?いわゆる商業音楽ってのか。

エンターテイメントっていうのかな、そういうものは否定しないし、そういうものでも好きなものはありますね。POPでキャッチーなものも好きだし、もうちょっと難解といわれるものでも良いと感じるものはたくさんあります。

ただ、メッセージ性の強いもの、政治的なもの、あるいはドロドロした感情表現とか。。たとえば演歌なんかが近いかもしれん。。そういうのはダメだなあ。

もうほんとに一口では言い表せないんですが、「苦節何十年・・やっと売れました・・」なんていう世界はまっぴらごめん。なんか違う。

でも民謡なんかは魅力ある分野だと感じる。

自然科学と音楽

音楽を考えるうえでのより所・・

これはやっぱり科学にあるんじゃないか?っていう視点。感情論ではなくってね、感情表現、情緒表現の方法としての音楽ではなくて科学的な視点が出発点となって、そして音楽を考えるということ。

具 体的には 短3度 ってのが ”なぜ悲しいのか?” “暗いのか?” ってのがよく説明の引き合いに出されたりしますね。簡単に触れると、つまりは ”音 響的干渉” が人間の脳・・聴覚に ”ざわめき、動揺” を引き起こし、それが悲しさという感情に変換されて知覚されている。

長三度や完全5度の安定感は音響的共鳴をやすらぎ、平和などのような感情として知覚される・・

自分的にはれがいちばんしっくりきます。

それで、音楽的歴史をさかのぼっていくと、これがギリシャのピタゴラスにいきつく。

いわゆる ”世界は数に支配されている” という考えです。

これらは ”もっともらしい” 説明であって説得力があります。


 

ここであらためてタイトルの問いに戻って・・

私の音楽の拠り所は、科学的な音響にある。感情はそれによって引き起こされるものであり二次的なものだ。

したがって感情があって音楽があるのではなく(情緒表現として)、組織化された音響、サウンドによって感情がコントロールされる。

それで音の組織化としていろいろな方法、考え方がある。

一般的な音楽語法 機能和声法

一般的?というと誤解があるかもしれませんが、いわゆる現在のポップス、ロック、歌謡曲・・いやジャズも・・

はコード機能・・機能和声法というもので縛られています。

例外的なものは除きますが、一般的にはトニック、サブドミナント、ドミナントで、およびそれらの代理、借用といったものですね。言葉で言うなら バークレーシステム とでもいうべきか。

一応、これらの考え方を基礎に自分なりに考えていこうと思います。

前置きが長くなりましたが、自分の音楽に対するベース・・基礎的な認識をどこに持つか?ということは大事なことだと思うんですね。

突き詰めて考えること・・音楽家なら自分の音楽を言葉をもって考えなきゃならんと思うんです。

音楽家・・ミュージシャンは数多くいますけど、(自称、他称、もどき?タレント?)音楽家なら音楽にたいして真摯であるべきだし、勉強もしなくちゃならんと思う。

音楽家はタレントではないんだから。ちょっとずれちゃったかな。

 

 

 - 音楽とギター, 音楽について語る